帝の退位なとがあり、まだ梟木とならずに牢に置かれていた三百名の一味浪人たちに恩赦が下された。死罪相当の百人が遠島に、また、遠島となるはずの二百人には江戸四方二十五里所払いとされた。

一方、二十五日より登城が止められている紀州大納言ならびに、紀伊家の譜代重臣に対する処遇は決まらぬまま、時が流れていた。


松平伊豆守は、難しい判断を迫られていた。紀州大納言名義の一味への書状が複数押収されているのだが、その押印を見てやれば、頼信の「頼」の文字、ヘンの部位が「東」に変えられていた。

伊豆守は、印鑑組合の元締、印判屋丹後と言う男を呼び出して、この黒印を見せて筆問すると、おそらく掘ったのは、私の弟子の宮治と申す者だと印の癖を見ただけで出所を推理した。

また、印鑑業者は、必ず、自身が造りし印に関して、いつ誰の依頼でいくつ印形を作成したかの記録が残されていると言う。

直ぐに宮治の記録が改められて、寛永十年八月三日に依頼されて、二十日後の八月二十三日に一つ印形が由井民部之助正雪に売り渡されていた。

しかし、記録に残された黒印は、頼のヘンは正しく「東」ではない。丹後曰く、後から誰かが細工して横一棒を入れたに違いないと言う。

そうだとすると、細工した者は印鑑組合でも、数人居るか!?の技術で、匠の技だと丹後は驚く。

「東」と彫らせておいて、横一棒を抜いて、「頼」に仕上げるのならば、さして難しくはないが、逆をやってのけているのだから、丹後をしても容易い技ではないと言う。


宮治によると、由井正雪は、紀州大納言の書状を三通持参して、紀伊家の用人と名乗り、この黒印と同じ物をと注文される。

印判職人は、全く同じ印形は造らないもので、正雪に縮尺をどう変えるか?相談すると、僅かに小さくし、縦横の比率は変えるなとの注文でした。

それを二十日掛けて造り日に一分の手間で、五両と私が請求すると、これが五両では大納言様に失礼だと申されて、八両頂きました。


益々、伊豆守、この印形の件を聞いて、紀伊家の処分について悩んでしまった。


つづく