佐原十兵衛と永山兵左衛門の両人が、江戸町奉行所に出頭したのは、十月二十日の事だった。二人は、自身に追手が忍び寄る事を感じ、自決切腹も考えたが、

武士である前に耶蘇教の信者である両人は、自殺はキリストの教えに反する故に、実行できず、悩んだ末に今日自首する事を決意した。


そんな中、遂に、拷問の末に丸橋忠彌が死亡。これを機に、松平伊豆守は、一味の処刑を決断する。

これ以上一味を牢に泊め置く事は、経費の無駄であり、拷問は本日で中止され、処刑の手続きが進められた。


生きている一味は、二十一日未明に牢から引き出され、市中引廻しの刑が準備された。

七人の同心がその先頭で警固に当たった。二番に奉行所仲間と、馬まわりの下人百人が棒を持ち続き、

三番四番五番と、罪の重さに従って、紙に氏名と罪状が記され貼られて行く。

高手小手に縛り上げて馬に乗せられたのは、加藤市右衛門を先頭に、嫡男辰之助、次男亀次郎。吉田初右衛門、佐原十兵衛、永山兵左衛門など、一味の大将格十七名。

更に、女は忠彌の老母と妻、加藤の妻など十人だった。この二十七名はいずれも馬に乗せられて、間に警固が入り、江戸市中を引き廻された。


一味の引廻し行列が、日本橋に掛かるおりに、数多集まる野次馬見物の中に、四十がらみの浪人数人が、馬上の加藤に聞こえる声で、

『こいつらは、虞れ多くも徳川家に弓を引く謀反を企てながら、実行に移す前に露見して殺される白痴者よ!!』と揶揄した。

すると一瞬、加藤市右衛門、鋭い視線をその野次馬に向けて、言い放った。


燕雀焉んぞ、鴻鵠の志を知らんや!!


そんな事もありながら、引廻しの行列は、牛歩のあゆみながら早くも鈴ヶ森の処刑場に、今、到着せんとする、その先頭に、黒羽二重に深網笠の二本差しが、先頭の前に飛び出して来た。

そして、網笠を取り名乗りを上げた。「拙者は、由井正雪、丸橋忠彌と大望を抱き謀反を企てた、張孔堂軍師、柴田三郎兵衛である!

由井正雪、丸橋忠彌とは桃李園の誓いにならい、義兄弟の契りを交わした仲であり、たとえ、生まれた日は違えど、果てる時は一緒と誓い合った義兄弟なれば、どうか願いを!武士の情けで御座る!と、訴えでた。


この処刑の現場責任者は、御徒目付の富田十郎兵衛と言う者だったが、柴田の鈴ヶ森での出頭を、殊勝な申し出だと評価して、その潔い心に免じてと、

冨田自らの判断、責任で、柴田三郎兵衛と、忠彌の老母と妻に逢わせて、切腹することを許し、冨田自ら介錯を務めた。

また、獄死した丸橋忠彌が、辞世を残したが、上の句しか無いと、柴田に知らせると、それではと、柴田がこれに下の句を添えて、義兄弟の辞世の歌に仕上げるのだった。


雨雲の 行方も西も 空なれば

頼む甲斐ある 道しるべせよ


この日、百二十名の一味が処刑され、百万人以上の江戸の野次馬が、沿道と鈴ヶ森で彼らの姿を目に焼き付けた。


さて、目付からの報告を読んだ松平伊豆守は、冨田十郎兵衛の柴田三郎兵衛に対する武士の情けに感じ入り、冨田を直々に呼ばれて褒美の太刀を与えられれて、百五十石を加増。

冨田十郎兵衛は、二百石取りの御徒組頭に出世したと言う。



つづく