慶安四年七月二十四日夕刻、由井民部之助正雪たち十一人は、駿河國府中にある旅籠、梅屋勘兵衛に逗留していた。

堂々している千人の兵卒は、由井、興津、島田、鞠子、岡部など各宿場町に分散待機し、二十六日の未明に合流する手筈だった。

そんな梅屋では、毎夕正雪が行う天文運気を読む八卦見を行なっていると、何やら江戸表に、不吉な影を見る事になる。

此れを脇で見ていた、坪内左司馬が『何か、良からぬモノが見えましたか?』と、やや不安げに問いかけると、それに答えて正雪が、眉を潜めて語り始めた。


恐らく今しがた大望が露見したと確信する。敵は松平伊豆守、知恵伊豆である、万に一つも抜かり無く攻めて来るはず。

露見の源が、丸橋忠彌である事までは、怪気運から読み取る事ができる。忠彌が召し捕られるのは時間の問題である。


ここに居る皆の者には、覚悟して貰いたい!!


そう正雪が言うと、十人の同士は口々に、一日前倒しして、由井から岡部に居る仲間を集めて、本日深夜にも府中城を討ち、久能山へ立て篭もるべし!と言う意見が大勢を占めた。

しかし、正雪、この意見を聞くと、より穏やかな調子でこう反論した。


この大望の肝は、江戸、駿府、上方を同時に攻める事であり、一番の大軍を指揮する江戸表の攻略が無くなってしまった今、

我々が、駿府の府中城を攻めて、久能山に篭り幕府から相模、駿河、三河辺りまで三國を切り取る事に成功したとして、

それが、我々の大望なのか?!否、我々は、徳川から日本を奪い返し、新しい政を始めるのが、あくまでも大望であるはずだ!

よって、拙者、由井民部之助正雪は、大望の叶わぬ事をここに悟ったからには、潔くここで自決し果てる所存である。

拙者は、武士としてこの場所にて果てるが、諸君たちに同じ道を強制はしない。逐電し別の空の下で生きるとも、人として何の恥じる事はない。

既に、知恵伊豆の追手が迫っているはずである、逐電する者は、軍用金を持って急ぎ行かれたし。


此れを聞いた十人は、今更何を!我々は最期まで、正雪様に付いて参ります。ここで逐電するような者は、誰一人居りません、と答えた。

此れを聞いた正雪、流石に涙して悦に入りて、同士一人一人の手を握り、目を見た。更に、落ち着いた表情で、正雪は言葉を繋いだ。


ここにある同士十一人で、十重二十重(とえはたえ)包囲して来る敵に、あらん限りの抵抗をし、一人でも道連れにとの考えもあるだろうが、

万一、死ねずに捕縛されたりすると、その後の恥辱は、甚だしく、末代までの汚点となる。よって、この場にて、自決する事にしたい。

そう宣言した正雪は、百程の『鎹』を用意するように、旅籠の主人に願い出て、金子を十分に渡し、夕飯の支度を終えたら、宿の関係者は別の場所に避難させた。

今正に、台所では釜の蓋を揺らしながら、白い蒸気が吹き出し、飯が炊けようとしていた。


由井正雪一味の最後の晩餐である。


さてこの時、正雪に対してこの様な質問が飛ぶ。「なぜ、丸橋忠彌のような『無智単才』を江戸表の総大将に任命したのか?」

「何度も自問しましたが、丸橋を選ばれた正雪殿の気持ちが理解できません。最後に、我々にも分かるように、丸橋をお選びになった理由をお聞かせ願いたい。」と。此れに答えて正雪が噛み締めながら喋り始めた。


ご存知の通り、丸橋忠彌は長曽我部の次男であり、徳川家は、かの父元親殿の仇なり。拙者は我が大望には『神輿』が必要だと考えていた。

そして、忠彌がその神輿に一番適した人材だと考え、此れを選んだ。その事は今も悔いは無い。

なぜならば、今回の大望に賛同し、連判状に血判した五千八百人のうち、二千人は元長曽我部の家来など、関係者なのである。

また、今回の大望の露見は、確かに忠彌の無智が招いた面もあろうが、十八年より以前、拙者・由井民部之助正雪が大望を抱いたその日から、この運命は避けられない定めだったのかも知れない。

よって重ねて申す!諸君、夢ゆめ丸橋忠彌を恨んだりしないでくれ、かの者を神輿に選んだのは拙者であり、恨むなら拙者を恨んでくれ!!

晩餐を済ませた面々は、出陣式で着た甲冑、陣羽織を付けて、春霞と言う香を焚き、最期の支度に取り掛かっていた。


ちょうどその頃、府中城では城代家老、大久保玄蕃頭殿宛に、松平伊豆守よりの早馬にて駒井右京之進殿が到着していた。実に四十四里を二刻での早駆けだった。

直ぐに玄蕃頭殿の指図で、二十五日朝、登城命令が、月番の目付役と駿府町奉行に出された。

集まった面々は、目付役、秋田安房守殿、松平彦兵衛殿、奥村太郎右衛門殿、戸田藤五郎殿、そして町奉行、落合小平次殿の五人なり。



つづく