正雪一行の出発前夜、七月二十日。張孔堂では、江戸城攻撃組の丸橋忠彌、柴田三郎兵衛の二人と、火遁別働隊の佐原、永山らも呼ばれて、名残りの会が催された。
正雪は妾に琴を弾かせ、各々覚えのある面々が楽器を取り、雅楽「還城楽」を合奏した。凄いぞ!張孔堂、雅楽の素養が半端ない!!
そして、酒宴を催し終花愉快(よもすがらたのしみを)尽くしける。
この席で、丸橋忠彌、個人に対してではなく、宴に参加した万座に対して、正雪は、このように訴えた。
「江戸攻めの総大将は、丸橋忠彌である。彼は、長曽我部の次男であり、この大望の中心と言っても過言ではない。
丸橋殿には、今更、申すまでもない事だが、家名に相応しい大将としての自覚を持ち、兎に角、軍師・柴田三郎兵衛殿とよく相談の上、行動して欲しい。
また、先年天草の戦で亡くなった我が師・森宗意軒からは、私由井正雪の人相を見て『五十に満たないうちはお前の大望が成就するのは、極めて難しい!!』と言われています。
そんな不吉な予言もあり、この度の駿府での戦いでは、思わぬ流れ矢を喰らい、我正雪は亡き者とならんとも限らぬが、所詮、この身は吉岡次右衛門と言う百姓出の染屋の倅である。
大望、道半ばで散るとも、天下取りの計略を立てて同士五千八百を集めて、徳川家に弓引いた者として、後世に名が残れば本望である。
後は、我が意志を継いで、長曽我部の御曹司、丸橋忠彌が、必ず、我が大望を成就させてくれると信じている。と。
その場に居た、張孔堂の面々は、正雪の言葉を噛み締めるように聞き入り、言葉を返す者は無かった。
翌、七月二十一日未明、支度を整えた由井正雪一行十一名、鵜野九郎右衛門、怪僧廓然、坪内左司馬、有竹作右衛門、熊谷六郎右衛門、安見善兵衛、関ヶ原清兵衛、由井三左衛門、本吉新八、そして草履取りの和田助都であった。
鎌倉街道の田舎道、正雪が東雲の空に明け渡る空を眺めていると、鈴虫の鳴き声が聞こえて来る。すると、風流人の正雪、矢立を抜いて。。。
鈴虫の 誰にか触るる 明日かな
早川崎に着くと、江戸から小舟で移動して来た先発隊と合流し、正雪の旅一行は数万石の大名か?と思う様な行列になっていた。実に、三百八十人の隊列である。
その日は藤沢の本陣に宿泊、翌日はあいにくの雨で、正雪も駕籠は使わずに徒歩での旅に。道中、立場の休憩で、『あれは何じゃ?』と、鵜野九郎右衛門に尋ねる、正雪。
九郎右衛門が『白旗の郷』に御座ると答えると、正雪、すぐに「あれが、義経と弁慶の鎌倉へ送られた首を祀ったと言う、白旗明神か?!」無念な思い、怨念いかばかり!と、正雪が呟くと、
九郎右衛門、「縁起でもない!急ぎましょう」と答えて、その日は、小田原で宿泊する。ここから、箱根の関所へは、紀伊大納言の家来と言って通る正雪一行でした。
関所の役人、確かに大納言の御朱印の押された書状を見せられては、何の文句も言えぬまま、正雪一行を通してしまいます。
二十四日、正雪たち十一名は府中に宿泊。名乗る千人の隊員たちは、興津、江尻、岡部と分かれて宿泊し、二十五日の夜中に、府中本隊と合流する手筈で、二十六日には城を攻めて久能山へ立て篭もる予定だった。
つづく