道灌山の決起の後、京都、大坂を制圧する隊の出発が近付いていた。そして、いよいよ京都攻めの大将加藤、熊谷と、大坂攻めの大将吉田、金井が江戸を後にした。

五百人からの隊を目立たぬように江戸から出発させるのは、それなりに苦労と工夫が必要だった。二十五人を一塊にしては、あまりに目立つからだ。

そこで、隊を四つに分けて六、七人の組を作り、この単位で行動させた。と、この本にはあるが、これで本当に幕府を誤魔化せたのか?

まだ、この時代には、伊勢詣とかブームにもなっていない。更に、山への信仰はあったにせよ、富士山より西へとなると???

だから、本当にこの本が言うように、東海道を使って二千人を旅させたりしたら、知恵伊豆じゃなくても気付くように思うし、だから露見したに違いない。

四十七人で仇討ちするのとは、訳が違いますよね?!本気で二千人を静岡まで送り、更に千人は京都、大坂までやれると思ったのか?


で、私なら?と考えてみた。やるとしたら、船と街道の二本立てだと、まず思います。そして、一ヶ月とか二ヶ月とかでは無理です。

恐らく半年、下手したら一年の規模での移動になります。お金がどんだけ必要か?また、士気を保つ事ができるのか?

同士を集めるのは可能でも、江戸から京都・大坂に隊を送るのは、かなり厳しいと思いますねぇ。だから、正雪が二人居て、江戸と京都・大坂で決起しないと、土台無理があるように思います。


上方への隊が出発するのに合わせて、正雪は兼ねてより準備していた軍用金の中から、二万両を京都・大坂の隊に渡した。

加藤と熊谷は、京都三条にある和泉屋金兵衛という旅籠に逗留し、吉田と金井は、大坂天満の越中屋太郎兵衛に逗留した。

しかし、ここで思わぬ事態を招く。それは、大坂の陣以降、旅籠での逗留に対して、厳しい法度が設けられていて、物見遊山を理由に、十日以上の逗留が禁じられていたのだ。

仕方なく、有馬温泉に湯治を理由に長逗留する事にして、宿を尼ヶ崎屋次郎兵衛という旅籠に決めて、ここに滞在する事になる。

ただ、これは思わぬ変更で、滞在費も嵩む。更に、近畿・四国・西國から入魂した同士を、合流すべし!と、逢ってみると、皆、経済的に困窮していて、

武具は無い、借金に縛られていて身動きが取れない、そもそもろくに食べてないから、激しい戦闘に耐えられる体ではなかった。

京都・大坂の大将は、困り果てて。。。正雪に軍用金について泣きが入る。なんとか?!更に追加で。。。と。

報せを受けた由井正雪は、困った。それでも、今更、中止にはできない。五万両を追加で準備して送ると、加藤、熊谷、吉田、金井の四人の大将は大いに喜んだ。


ここの軍用金の輸送や配布は、どうしたのか?と、思います。江戸でいきなり、大金を兵隊に渡すと、上方へ行かずに逃げる奴が現れる。

二万両をどうやって上方へ運ぶのか?熊谷は飛脚に化けてハサミ箱を担ぐのかな?分からないよね。軍用金の輸送方法。


一方、丸橋忠彌も正雪から軍用金として三万両を受け取ったが、総大将なんだから、俺の隊は二十万両、いやいや三十万両でもいいはずだと、不満を感じた。

しかし、それを正雪には口に出来なかった。なぜなら、そっちの方面には、全く自身は尽力していないからだ。そこで、よせばいいのに、忠彌、自身で金策に走り始める。

まず、手始めにと古くから付き合いのある大金持ちの、本郷御弓町に住む弓師藤四郎に、薩摩藩に槍術指南で千五百石で召抱えられた。

来年の七月末に返すからと、二千両と言う金子を都合してもらう。しかし、直ぐにこれは噂になり、柴田三郎兵衛の耳に入る。

柴田は驚き、丸橋邸へ飛び込むと、どれだけ愚かな金策か?!と、忠彌を戒めて、二度と勝手な真似はしないと誓わせて、その二千両を藤四郎に変えさせた。



つづく