正岡子規が「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」と歌に詠んだ道灌山。江戸時代、この道灌山は、西は富士山、東は筑波山が望める景勝地だったとか。

当日、薬草採取の地、また虫の鳴き声の名所としても知られており、江戸の名所を集めた錦絵の画集に、広重作『道灌山虫聞之図』が納められている。


慶安四年、四月二十日。三代将軍徳川家光が他界する。ご尊骸は、上野東叡山に葬られた。戒名を「大猷院殿贈正一位大相国公」と称して奉る。

御世嗣は、館林宰相殿、御歳十三歳である。これが四代将軍家綱公です。この噂は、丸橋の甥、平見次郎右衛門から丸橋忠彌へと告げられ、即日、正雪の耳に入った。

正雪は直ぐに天文運気を見て、変事の兆候を捉えて、大望の持節到来を確信する。しかし、丸橋忠彌には、決して口外するな!と、口止めの上、翌日二十一日から、病と称して張孔堂の門を閉ざす。

張孔堂一味には、千載一遇のチャンス!です。将軍がカリスマ家光から、その若旦那、たった十三歳の鼻垂れ小僧に代わるんですから。

どのくらいの落差か?五代目小さんが六代に代わるより落差ありますね、そう!初代三平が二代に代わるぐらいの衝撃でした。


その一方で、血判を押した同士へは、二十五日の子刻、上野東叡山の鐘を合図に、道灌山への集合を命じるのであった。

かくして、三々五々道灌山に集まりし一味は、五千ハ百十八名。直ぐに正雪の指図で二十五人を一隊として軍が編成され、二百十七隊が組織された。


さてこの日の正雪の出立はと、みてやれば紫縮緬の袷小袖、茶数子(しゅず)の野袴、濃紺地の錦に、錦糸にて菊水の紋を刺繍した陣羽織を身に纏う!!(ここは、講釈だと盛り上がる場面です。)

更に、頭には黄色い置綿帽子を頂き、南蛮鉄であしらえた手甲、脚絆が黒々と光り、手に持った陣太刀は二尺一寸、金銀珊瑚が散りばめられて眩いばかりの輝きだ!!

その正雪が、二百十七隊の正面に置かれた床几に、どっかと腰を下ろして、全隊を見渡した。


一方、丸橋はと見てやれば、黒数子の袷小袖に緋の数子の野袴を履く。陣羽織は白数子に、金糸の刺繍で紋が入り、白銀作りの三尺八寸の陣太刀を差し、更に添脇差しは二尺六寸の長刀である。

この丸橋もまた、正雪のやや左後ろに、白い鉢巻を締めて、床几を置いて座していた。

この他にも、加藤、熊谷、吉田、金井、鵜野の五人の大将は、それぞれ、青・黄・赤・白・黒の陣羽織に、左右に列をなして控えていた。

そして、軍師柴田三郎兵衛は、先の面々とはがらりと変わり、軍師らしく華やかな服装で、正雪の右に控えていた。(服装の表現に、作者が飽きたのか?丸橋、五人の大将と徐々に雑になり、柴田に至っては、華やかだけで、色もない。)


隊が揃い、大将五人と副首領丸橋、軍師柴田が両翼を固めたのを見計らって、首領由井正雪の下知が飛んだ!!


「拙者は、四十隊・千を率いて駿河へ参り、府中の城を火攻めする。ここを奪うは、武器を手に入れる事にある!!

道中、駿河・三河・尾張の同士とも合流して、府中の城を落とした後は、一旦、久能山に立て篭り、陣を整備して策を準備し、

最後は時を測り宇津ノ谷峠へと撃って出て、西國から下り来る京、大坂勢と合流し、最後は紀伊大納言の後ろ盾を持って江戸を攻める。

吉田、金井は大将として二十隊・五百を率いて大坂を攻める。途中、四国・西國の同士を集めて、大坂城・大坂奉行所を火攻めとし、これを討ち破ってからは、京の後詰めとする。

また、加藤、熊谷は京都攻めの大将として、同じく二十隊・五百を率いて、近畿の同士と合流し、二条城を火攻めする。同時に京の街を焼き払い、御所より帝をお連れして、比叡山に立て篭る。

ここで、大坂勢の合流を待ち、帝の『幕府討伐』の勅命を得て、江戸へと隊を進むべし。

残る隊、三千八百は江戸城攻めの隊である。総大将は丸橋殿、その作戦参謀が柴田殿。柴田隊が下水道から、城の火薬庫を爆破する。

この混乱に乗じて、本丸へ弁慶堀より丸橋隊が突入し、将軍の身徴(みしるし)を頂戴する。

更に、この隊は上野へ軍を進め、上野の宮をお連れして日光山へと進軍、ここに陣を敷いて篭り、幕府軍との最終決戦を待つ。

尚、この三千八百のうちの八百は遊軍として、佐原、永山両人が指揮する火遁飛雷電隊とする。

最後に、いかなる捕虜に対しても、戦の最中に無益な殺生は禁止する。必ず、大将に許可を得る事。みやみな殺戮は、何の益にもならぬ。」


千代田の城の方に向かい決起の証の火矢を一つ飛ばし、心の中で、五千ハ百の同士が声を上げた。

そして、一同は、ひとまず家路につき、各大将からの下知を待つのであった。


つづく