正保三年九月十五日、朝から正雪は天文運気にただならぬ物を予感していた。張孔堂の門弟を集められるだけ、宿客の弟子に集めさせた。
そして、竹を切り出し梯子を作らせ、桶や盥を集めさせて、それに水を溜めさせた。張孔堂の敷地に集められた、大小の桶や盥には、沢山の水が溜められた。
正雪の見立てでは、未から申に掛けての夕刻に、火事は起こるとして、張孔堂の隣家にも、火事への警戒を呼びかけたので、隣家もそれに備えていた。
そして、申の刻。正雪は集まった門弟、千五百人で、四十五間ある張孔堂の周りを、二列で整列させて、ぐるりと囲ませ、張孔堂の屋根に、正雪が大きな団扇と太鼓を使い、この隊列に指図した。
やがて、申刻後半、西の方から突風が吹き荒れて、正雪の予想通り火事が発生した。しかし、張孔堂門弟の消化活動の速さ、予め用意した水で延焼を次々に食い止めたのだった。
更に、鎮火後には、大鍋を用意して門弟千人五百とご近所合わせて、二千人前以上のお粥の炊き出しをして振る舞う正雪だった。
流石に、これには、公儀からも褒美こそ出ないものの、使者を贈り賛辞を述べたと言う。牛込界隈は、益々、張孔堂贔屓が増えて、正雪の評判は高まった。