姉妹を連れた五人は、走りのスペシャリスト・熊谷が居るから、坪内・松田を置いて、電光石火の足取りで、仙台白石へと入るのでした。


白石城下の旅籠に泊まった五人は、まずは、書状を書いて、それを家老の片倉小十郎宛に送る。そこから数日あって、調整の後に、立合い人の三人が登城を許された。

五年前に逆戸村において、片倉様の配下、志賀團七殿に無礼打ちと成った、百姓・与太郎の仇を討たんが為に、遠く奥州仙台から江戸へと剣術修行に参った姉妹があります。

その二人に対して、我が道場の主宰・由井民部之助正雪は、五年の歳月を掛けて、武芸の修行をさせて、この度、仇討ちの許可を公儀より頂き、ここ仙台は白石しまかり越した次第です。

受け答えしたのは、鈴木源五兵衛と正木治兵衛の両人だった。百姓の娘と聞いて、二人を見ると、白い正絹小袖に、柿色の縮緬帯、白い鉢巻姿で、実に凛とした風貌である。

伊達家側の両名に、熊谷が、仇討ち姉妹からの言上をと願い出て、まず、此れが受け入れられて、姉妹の言い分を、鈴木・正木は聞き入れた。

父と姉妹の三名で田圃の手入れをしていた際に、妹・信夫の粗忽から、片倉小十郎様のご家来、志賀團七殿の面体に泥を掛けていまいました。

直ぐにその非礼を三人で詫びたのですが、それを聞き入れられず、志賀團七殿に父・与太郎は斬り殺されました。

そのご、志賀殿への藩中の裁きや仕置きはなく、斬り殺された我が父・与太郎の無念を思うと余り有ります。

そこで、正々堂々の勝負を、我ら姉妹は志賀團七殿に申し込みます。どうか、伊達家としての許可をお願いします。


あまりに立派な向上に、鈴木、正木の二人は再度、驚き、伊達政宗公に対して、この件の裁定をお伺いする事にした。

それまでの間、今の旅籠から仙台城下の立派な本陣へと五人は移されて、丁重な扱いを受けることになった。

政宗公は、この姉妹の孝心にいたく感じ入ると同時に、その姉妹を五年もの間、預かり武芸の指導をした由井正雪にも、いたく感心されたと言う。

そしてすぐさま、政宗公の命により、孝心姉妹の仇討ちを行う方向で検討せよ!との下知が飛んだ。

一方、五年前の与太郎無礼討ちの件の調書がしらべられて、志賀團七は物頭である小田部大学様預かりとなり、政宗公からの沙汰があるまで、身柄を拘束された。

そして、伊達藩は幕府に使者を送り、この件を伊達藩の支配において、仇討ちをとり行う事の許可を申し出て、この許可が降りた。


仙台城下は、もうこの孝心姉妹の仇討ちの話題で持ち切りだった。そして、仇討ちの会場が、藩によって、白石の河原に設られた。二十一間四方の行馬(やらい)が設営さるた。

更に、その正面には桟敷が置かれて、伊達政宗公は検使役と観察役を共に現場へ出張させて、その任には、片倉小十郎と荻野刑部が当たった。

更に、警護の侍も七十名、また足軽三百名も動員し仇討ちの運営に当たらせたのだった。

そして、当日、孝心姉妹の仇討ちを見ようと、仙台はもとより、近郊近在から見物客が集まり数万の人が押し寄せた。遠巻きに見る客には、仇討ち行馬すら見えない黒山人集りだった。


東の木戸より熊谷三郎兵衛、坪内左司馬、松田彌五七の三人に連れられて、仇討ち姉妹が行馬の中へと入る。桟敷の検使、観察の二人に深深と一礼して、それぞれの武器(どうぐ)の確認を始めた。

また、熊谷、坪内、松田の見届け人三名は、桟敷に用意された席に着き、検使役からは、助太刀勝手と伝えられるが、姉妹の力量なれば、我々が助太刀する事はあるまい!と、答える。

遅れて、西側からは、志賀團七が目付二人に同道されて入場。團七は、背中に三尺二寸の長刀を下げていた。


両者の入場が終わると目付二人が、双方の武器と装束改めに掛かっが、姉妹は特に不都合はなく改めを終えたが、

團七は肌に鎖帷子を付けていて、武士のくせに仇討ちの作法も知らぬか!!と、目付役より叱りの言葉を受け、その場で鎖帷子を剥ぎ取られる。

これには、数万の観衆からも、ヤジ・謗りが飛び、万座で恥をかく結果となる。

武器の確認と装束改めの後で、試合のルール説明が行われた。姉妹は片方ずつでも、両人同時でも闘う事が許されたが、志賀團七側は助太刀無用、終始一人で闘う。

また、試合は半刻を一セットと定めて、途中、休憩を挟んで、決着げ付くまで、何セットでも闘いを繰り返す。尚、開始!止め!の合図は大太鼓を打ち鳴らす。


試合開始の太鼓が鳴り、先ずは妹の信夫が薙刀で登場、一人で團七と相対した。互角の打ち合いが続き、互いに擦り傷を負う程度で、刻を告げる太鼓が鳴る。

第二ラウンドは、姉の宮城野が陣鎌に、長さ二尺の鎖とその先に分銅を付けた、所謂、鎖鎌を武器に團七と闘う。

宮城野は、信夫より非力ではあるが、圧倒的なスピードで、しばしば團七の側面に周り、脇腹に分銅を当てる。

少し焦った團七が、上段から長刀を振り下し空を斬って慌てて、刀を戻した所へ、鎖を絡めて、刀を奪い、重ねての攻撃で、腕と胴を鎖で締め上げた、宮城野。

そして、妹・信夫に声を掛けます「しのぶ!今です、首を!首を!」、声を掛けられた信夫が、薙刀を一閃!!すると、團七の頭が、みごとに首から落ちました。


すると、数万の観客から大歓声が起こり、鳴りやまぬ拍手喝采!!二人は桟敷に一礼し、四方の観客にも、何度も頭を下げていた。

翌日、二人は父親の墓に、團七を討った報告をして、寺の和尚に回向のお布施を渡した。更に報告を受けた伊達政宗公からの接見が用意された。

政宗公は、いたく感心されて、白銀(はくせん)三枚が、姉妹と三人の見届け人に贈られた。また、由井正雪の一連の働きにも、政宗公は感謝を述べられ白銀五十枚を下された。

この席で、今後の事を政宗公に聞かれた姉妹は、もう思い残す事は無いので、自害を申し出たが、政宗公は、二人を諭し仏門に入り尼となる事を薦められる。

かくして、姉妹は尼となり父親の供養と、自身らが討った相手の團七の供養、並びに、伊達家と張孔堂の繁栄も祈るのでした。


この仙台での女仇討ちの一件は、江戸でも評判となり、また、張孔堂正雪の評判は一層高いものになりました。


つづく