話は九年前に遡ります。寛永八年、張孔堂が四千の門弟を超えても、正雪は嫁を持ちません。かつて、師である森宗意軒に、嫁は?と、問われた際に、子孫繁栄を望まないと答えた。
すると、宗意軒から「五十を過ぎて女子に狂い溺れるぞ!」と脅された事を、時々、思い出したりしていた。だからではないが。。。
張孔堂の門弟に、松田彌五七と言う青年があり、正雪が近頃目に掛けていて、何かあると伴に従えて外出する事の多い青年である。
この彌五七には妹があり、これが、牛込小町と評判の器量よし。絶世の美人で、正雪がこの妹を気に入り、張孔堂の邸内に個室を造り住まわせ、妾とした。
一方、時を同じくし話は変り、奥州仙台は、まだ伊達政宗公の時代、国家老に片倉小十郎と言う人があった。伊達城下の白石と言う在が彼の領地で、
その白石の川崎海道、逆戸村とう所に、与太郎と言う百姓が住んでいた。田畑を十二石ばかり持つ百姓で、可愛い娘が二人あった。上が十六、下は十三。働き者の良い姉妹だ。
ある日、与太郎が姉妹を連れて田圃に入り草むしりをしていた。そこへ片倉の家来で、志賀團七と言う、家中でも評判の札付き。実に粗暴な二百石取りの侍が通りかかる。
その時、事件は起こった。下の十三の娘が、無意識に投げた草が、この團七のほっぺたを直撃したのだ。「何をする!無礼者め!!」烈火の如く怒り狂う、團七。
あまりの恐ろしさに、娘は竦み(すくみ)動く事も口が噛み合わず声も出ない。気付いた与太郎と上の娘が、間に割って入り、「どうか!ご勘弁を!まだ、年端も行かぬ子供です!」
と、許しを乞うたが。。。團七は、「武士の面体を汚しておきながら、許せとは、言語道断!そこに直れ!お前から成敗してくれる!」
そう怒鳴り付けて、團七は刀を抜いた。上段に振り上げ、直ぐ様、与太郎を袈裟懸けに斬り捨ててしまった。
血飛沫を上げて絶命する与太郎、声も出ない。これを見た姉妹は、恐怖を通り越したか?田圃の中を突っ切って林の中へ逃げ込んだ。
慌てて、志賀團七もこの後を追ったが、見失ない二人を諦めて、家へと帰ってしまった。姉妹は日暮まで林に隠れて、殺された与太郎を連れて、夜更けに我が家へと戻った。
翌日、志賀團七からの届けにより、与太郎を無礼討ちにした件は、片倉小十郎の耳にも入った。また、あの不仁不道の團七が、いくら百姓が無礼したか知らんが、殺してしまうとは。。。
呆れてた、小十郎は團七を謹慎として、庄屋を通じて百姓家に見舞金を出させるのだが、一ヶ月もすると、志賀團七は普通に登城を許されてしまった。何の罰も無い。
姉妹は泣く泣く、通夜と葬式を送った。重病で寝たきりだった母までもが、四十九日を過ぎる前に、後を追うように亡くなった。
二人だけになった姉妹は、庄屋に頼み、父の田畑を売り、父母が残した借財を払い、残金を路銀にして、叔母が住む相馬に身を寄せた。
暫くは叔母の世話になりながら、姉妹は独立したいからと、福島へ旅に出ると言いだした。叔母は、引き留め相馬で暮らす事を提案したが、二人の意思は固かった。
やがて、姉妹は福島を目指し旅に出た。叔母がくれた餞別と父母の田畑を売った残りで、なんとか福島まで辿り着き、此処では住み込みで百姓の手伝いをして、又銭を溜めた。
姉妹は次に水戸の城下へと旅に出た。そして二人には明らかな目的があった。それは、江戸まで出て、共に剣術の修行をして、いつの日か、父の仇を討つという。その執念だけで、旅を続けていた。
明けて寛永九年。姉妹はやっとの思いで江戸へと着いた。馬喰町の宿屋に泊まり、江戸中の剣客の噂を集めた。
すると、たまに剣なら柳生様だ、棒術なら阿部様、槍術なら山本様、馬弓なら北条様との噂も聞くが、殆どの武士は、十中八、九が張孔堂正雪の名前を出す。
江戸一番は張孔堂。
そこで、意を決して姉妹は、牛込榎町にある、その道場を訪ねる事にした。
正雪は、仙台伊達家の領分より『女の仇討ちが現れた!!』と聞き、大そう興味を惹かれた。姉妹を客間に通して面会すると、旅に疲れた田舎風の二人ではあるが、
父の無念を晴らしたい一心の孝心が伝わり、それは、姉妹の目力によく現れていると感じた。二つ返事で、姉妹に武術を教える事を快諾する正雪だった。そして、その目には涙が。。。
そして、動き易い道着を妾に用意させて、彼女たちの世話を、我が子のようにと命じた。その日から二人は、張孔堂の下女として働くのではなく、
女性の客分としての扱いで下宿し、張孔堂の中に住み込んだ。現在で言うならば、VIP待遇である。
翌日から二、三日、二人の基礎体力と適正を審査し、姉には陣鎌手裏剣を、そして妹には薙刀を教える事に決まった。
そして、ここで二人は正雪に尋ねる、私達姉妹は、何年修行すれば、父の遺恨を晴らす事ができますか?と、すると、やや考えて正雪は、三年、丸三年で本懐をこの張孔堂が遂げさせます、と。
更に、二人に道場での名前を授けた、姉には宮城野、妹には信夫(しのぶ)と。(この二人に名前をつけたのに、妾には、まだ無い。)
姉妹は努力した。寝る以外は武道に励み、実戦訓練だけでなく、兵法の論理、そして心理戦の極意。時には現代のメンタルトレーニング的な事にも挑戦する。
兎に角、男と女の体力差を埋めるトレーニングと、一方で女性の方が勝るスピードと柔軟性を伸ばすトレーニングを効果的に行った。
アッと言う間に、三年の歳月が流れたが、正雪は、まだまだ、あと少し上のレベルに技を磨く必要がある。これより、あと二年の辛抱を二人に課した。
すると、張孔堂の門弟から、正雪が美しい二人を手放したくないのでは?と、下世話な噂も聞こえたりしたのだが、
そんな噂には、耳も貸さず、正雪はより厳しく二人を指導したし、姉妹もその正雪の熱意に応えてよく修行に励んだ。すると。。。
一年十ヶ月後、姉妹は道場の門弟に混ざり、六十人組手を行う、すると張孔堂の上級門弟ですら、容易には勝てないレベルに技は達っていた。
正雪は、部屋に二人を呼び、汝らの孝心の徳によりここまでの技量に、それぞれが達した。最初、お前たちに、三年と、私が言ったのは、それなりの意図があっての事だ。
あの時に、五年とハナから正直に申さば、二人に『じっくりやろう!』と、本気の全力で一日一日を過ごさない可能性を感じた、だからあえて三年と申し、更に二年と足したのである。
しかし、杞憂だった、お前たちは二ヶ月、私の予想より早く免許皆伝となった。もう大丈夫だ、仇を討ちに参りなさい!!
正雪は、二人に新しい武器(どうぐ)を与えた。姉、宮城野には南蛮鉄の陣鎌、妹、信夫には白柄の薙刀である。
また、仙台までの十分な路銀を、公儀よりの仇討ち許可状を添えて渡した。更に仇討ちの見届け人に門弟三人、松田彌五七、坪内左司馬、そしてもうお馴染、熊谷三郎兵衛である。
一方正雪の妾は、五年もの間、我が子のように語り合い、励ましながら暮らした為、親子の今生の別れを見るような有様だった。
互いに、人として教え、教えられ、成長しながら過ごした五年間は、言葉では言い尽くせず、ただただ涙、涙の別れだった。
最後に、必ず本懐遂げて生きて帰るのだと言って妾は、白い小袖と拓殖の櫛、紅白粉と小さな鏡を餞別として渡した。
翌朝七ツ。まだ暗い中を正雪と妾、そして張孔堂寄宿人一同に見送られ、宮城野と信夫は三人の見届け人と共に、五人で、白石へと向かった。
後にこの二人は、駿河で自害し、晒し首となった正雪を、安倍川宿の某寺に葬って回向したと言う。
『情けは人の為ならず』
皆応報の人の世と、後になって知るものである。
つづく