忠彌は、困り果てていた。正雪と柴田をどうやって引き合わせたら良いものか?元々、知略、軍略には疎く、考えるより体を先に動かすたちである。
無い知恵を絞り、忠彌が思い付いた作戦、筋書きは。。。江戸中に名前の知れ渡る剣豪から、張孔堂と好、故に「果し状」が送られて来る。
こんな物、いちいち受けていられないので、大抵は無視するのだが。。。この相手だけは避けては通れぬ真の武士(もののふ)だ!!
万に一つも、遅れは取るまいが、然りとて勝負は時の運。自分が斬られて絶命したら、江戸に来たばかりの母御前のめんどうを、是非、柴田に頼みたい!と、言っておいて、
「丸橋忠彌が死んだ!」と、知らせて、相討ちだったと言えば、死体が張孔堂にあり、仮通夜だとでも言えば流石に来るだろう。
そうして、通夜の夜に、正雪と柴田を合わせれば、対面せざるをえないはず!!あとは、果し状を書くだけだが。。。俺の字ではすぐバレる。そうだ!適役に頼もう。
有竹作右衛門が、丸橋道場に呼ばれた。そして、剣豪の果し状を作るように、忠彌から頼まれたのでした。
有竹「誰の筆にします?」
忠彌「荒木又右衛門殿ではどうだ?」
有竹「残念でした、二年前、天草戦争の年に死んでいます、地獄からの果し状になりますぜぇ」
忠彌「ではぁーーーそうだ、千葉道場の鬼才・平手造酒!!」
有竹「生まれてません!!天保水滸伝ですぜぇ、大将。いくら講釈師が嘘つきでも、平手造酒と丸橋忠彌の果し状は???『火焔太鼓』級、甚兵衛さんになっちゃうよぉ!!」
忠彌「ならば、作右衛門!お前に任せる。二分の手間だ!受け取れ」
そんな落語みたいな遣り取りがあって、勿論、本には有りませんよ、大活躍の代書屋・有竹作右衛門が書いた果し状を持って、忠彌は柴田三郎兵衛の道場へと赴く。
柴田に果し状の件を切り出し、神妙な態度で母親を頼む!と、言う。柴田もいつになく真剣な忠彌の様子に、唯ならぬものを感じて、手を握り、俺に任せろ!!と、快諾。
先勝祝いだ!と、柴田が景気付けにと酒を振る舞う。そして柴田が、『果し状』の中を見て、突然、大きな笑い声を上げた。
忠彌は、驚いた。柴田が気でも違ったか?と、驚いた。すると、ゆっくり柴田が口を開いた。忠彌、そうまでして、お前は私を張孔堂に会わせたいか?もう、言うなぁ、分かった、由井正雪と会おう。
突然の柴田の態度の変化(へんげ)の理由が、忠彌には理解出来なかったが、柴田が会ってくれると言うのなら、この芝居も無駄ではなかったと素直に喜んだ。
酒、肴が運ばれて来て、和んだ空気になって、柴田が忠彌に言った。その果し状は大したもんだ!ところで、武蔵様はいつ、肥後熊本から江戸へ来られた?
作右衛門は、宮本武蔵が丸橋忠彌に当てた果し状を、佐々木巌流小次郎調に書いていた。字は柴田も見知る武蔵の手で、立派な花押まで押されて有った。
また、柴田は忠彌が渡した手間が二分と聞いて、安い!と、一両包み渡したと言う。
五日程時が過ぎて、鰤の片身を弟子に持たせて、柴田三郎兵衛が張孔堂へやって来た。鮮やかな藍染の合せに仙台平の袴、羽織は着物より深い染めで、実に凛々しい姿だった。
正雪は、対照的に白い正絹に、濃い紫の十徳。廊下を擦り足で、床にすれる足袋の音をさせて現れた。
「由井民部之助正雪で御座る。本日は忙しい中、張孔堂へ、お越し頂き恐悦至極に存じ奉ります。
日頃は、我が舎弟、丸橋忠彌がお世話になりまして、本来なら手前が、先様へ足を運ぶべきを、わざわざのお越し重ねて、痛み入りまする。
また、今日の所は、出世魚など土産に賜り、御礼の言葉もありません。では、今、暫く奥の間にて、お待ち下さい。
もし、宜しければ、奥に私が収集した画作、陶器、更には少々、刀などもございます。ごゆるりとお寛ぎ下さい。」
この上なく、慇懃な挨拶を受けた柴田は、さっそく、張孔堂コレクションを観て回った。これが例の楠木正成の系図かぁー。よくできている。
そういいながら奥へと進むと、正雪の書斎らしき部屋があり、特に締まりはされていない。その書院の机に、諸侯からの手紙が無造作に置かれていた。
そんな中に、加賀様、二代利常公からの書状があった。用心深く中を見ると、正に、利常公の手だ。
利常は、家督を利家から受けてまだ、五年。江戸詰めになったのは、半年前だ。その書状がここにあり、しかも当主となってから使い始めた花押入りの書状だ。
内容は、他愛無いもので、槍、剣、弓の合同稽古の申し込みと、師範代を紹介して欲しいとの依頼に、張孔堂から頼まれていた刀に関する返事が添えられていた。
柴田は、酒井讃岐守の家老、加藤初右衛門から加賀公への祝辞の文面草案とその代筆を頼まれて、加藤が受け取った返書を見ているから、利常の筆だと分かったのだが?!
これが、贋作なのか?だとしても、何の為に。。。刀を探しているのは?もう少し、後日、探ろう。
この日は、初対面でもあり、たまたま、忠彌が母親を迎えに川越へ出張り不在だった事もあり、突っ込んだ話はできず、食事を馳走になり帰る柴田だった。
それから、二度ほど、張孔堂へと柴田が現れるようになった。時に、軍談や、唐土の兵法についての突っ込んだ意見の交換もした。
やがて、柴田は、由井正雪と言う人物が、上部の薄っぺらな兵法家ではなく、確かに努力して学問として、軍略を昇華し実践していると感じた。
ならば、なぜ?徳川家に逆らうのか?その一点が理解できないまま、何度となく、正雪にあっていたが、やはり、埋まらない溝が二人の間には存在した。
忠彌が接着剤の役目を果たそうとしたが、溝は溝のまんま。ユークリッド幾何の平行線の定義のように何処までも交わる事はない。
特に気に入らないのは、いちいち芝居掛ったやり様だ。こないだも甲冑を見せられた、兜の地金に妙な細工がされている、よーく観ると早乙女祐信の秘伝の彫り模様ではないか?驚いた。
誰が彫ったんですか?と、問うてみると、張孔堂自らが彫ると言う。実際に観たいと言うと、また、その場で彫って見せたりする。
実に、信じ難い。更にだ、私がその彫刻は北条流秘伝の紋様なれば、他人が好き勝手に真似て、諸侯に見せ開かせるモノに有らず!と言うと、
若輩の私にだぞ、張孔堂は頭を下げて、思慮が足らなか、二度と彫りますまい、諸侯にも見せますまい!と誓うんだから、二度驚いた。本当に、人たらしだ、張孔堂正雪め。
そんな柴田が、悪戯心で、逆に由井正雪に芝居仕立てを仕掛けてみる事にした。それは正雪が刀を探しているとの噂を利用するものだった。
正雪に、良い刀を見付けたので、是非、見せたいと、使者を立て手紙で報せて来た。直ぐに返書を書く民部之助、翌日、稽古が終わる七ツに張孔堂にて。
柴田がその白鞘の刀を持って来た。銘は「藤四郎吉光」。正雪は鞘を開けずに布袋にその刀を戻し、これは私の好みに合いかねると言って、柴田へ刀を返した。
翌日、また柴田からの使者だ。昨日は大変失礼しました、今度こそ、気に入って頂ける逸品です。と、書かれていた。また、七ツに約束をする正雪。
柴田、今度は風呂敷に桐の箱で持ってきた。これは我家伝来の秘蔵の逸品と見せる。箱を、押し頂いて礼をして開ける正雪、中に書かれている文字を見てやれば、銘は「青江村正」。
正雪、鞘を払いその氷のような鋒を光に照らした。『おのれ!柴田、計りおったなぁ?!』心の奥で呟いて、刀を鞘に収めて、ゆっくりと、語り出した。
三味線が、チチチンリチンリ、チャンリン!チャンリン!と、入ります。
お前さんが、ハナ見せた吉光は、徳川家に吉兆を齎すと、権現様の代からの宝刀だ。
何でも、その家康が、三方ヶ原で信玄入道に追い詰められて、余りの恐ろしさに、その場に失禁!脱糞!常軌を逸し腹を斬ろうとした。
その時の脇差が、この、吉光だったそうだ。鞘を捨てて、腹に刺したが斬れない。側に有った床几を斬ると切れた。再度、家康が腹を刺したがまた斬れない。
漸く家康の異常に気付いた家来が集まり、切腹を諫めて、事なきを得る。この時から、家康は徳川家の宝だと吉光を有難がる様になる。
だから、藤四郎や粟田口と称されて、ありがたがられるのだ。
片や、村正。鞘も抜かずに斬れたと、家康が忌み嫌った刀。徳川家に災いを齎すと、譜代は村正を禁止している。私は二本所蔵していたが、一本を忠彌に譲った。
私に、徳川家への謀反の意思が、どの程度あるかを確かめたなぁ?!柴田殿。私を、楚の沛公にしてくれ!その為にも、貴殿が我が張良となってくれぬか?!
さて、柴田三郎兵衛の心中や如何に?!
つづく