板倉内膳正討死の報せを受けて、幕府は松平伊豆守と戸田左門の二人を代わりに大将として派兵した。
現地に赴くと直ちに、伊豆守は密偵、草(忍者)を使って一揆軍の内情を探らせた。
そして、この草からの情報で、一揆軍は海から夜中に船を出して、瀬取り。つまり、海の上での船と船とを接近させて食料を得ている事が分かった。
伊豆守の対応は、早かった。瀬取りでの食料の補給を断ち、一揆軍を兵糧攻めにしたのである。補給路を絶たれた一揆軍は、一ヶ月と持ち堪えられなかった。
最後は牛馬を殺し、雑草、ミミズ、モグラにネズミ、城中の食べられる物は、木の皮まで食べ尽くした。
一方、張孔堂正雪も、一揆の様子。特に師匠、森宗意軒がどうしているのか?気になったが、正雪自身が江戸を離れて天草へ観に行くわけにもいかず。。。
ここでも、あの一藝山賊からの一人、足に自信ありで、日に三十里以上を走る熊谷三郎兵衛を物見に行かせた。
江戸から島原までは三百四、五十里。熊谷の足でも、十日から十一日を要します。
さて、伊豆守が兵糧攻めを仕掛けた島原城。中の様子が、日々、草から報せられて、遂に攻め時は今だ!と判断、松平伊豆守の総攻撃の下知が飛びます。
先鋒一番槍は、細川家老、長岡帯刀率いる二千騎が務めましたが、もはや籠城の兵に抵抗する気力は無く、二千の兵で中を全て掌握する勢いでした。
しかしそこへ、御大将、渡邊四郎太夫時貞が、幻術を使い黒雲に乗り龍を従えて、雷鳴轟かせて登場!!一気に、帯刀の軍勢に緊張が走り、一瞬ひるみかけた。。。
しかし、伊豆守がかねてより用意させていた、鶴岡八幡宮の聖なる鏑矢、この音が四方より轟くと、黒雲が消え龍の姿は無くなり、雷鳴も止まって幻術は失せてしまう。
そこを帯刀の軍勢が、四郎時貞へと襲い掛かかるぅーーー、斬首の上、その首は、この後、三条河原に晒されます。
大将の首が取られたと、同時に、島原城は地雷火が炸裂する爆音と共に、火の海と化して崩れ落ち、ここに、四ヶ月に及んだ一揆は、松平伊豆守の功により鎮静化する。
一部始終を観ていた熊谷三郎兵衛、その様子を書き留めて、島原を後に江戸へと帰る準備を始めた。
来る時は飲まず食わずで、韋駄天ぶりを発揮して十一日だったが、帰りは二十五日掛けて帰ろう。
それでも、熊谷の速い足並みに途中付いて来る健脚あり!それこそ誰あろう、あの丸橋忠彌の朋友、柴田三郎兵衛だったのだ。
この柴田、一揆討伐軍の兵糧調達と後方支援を幕府より賜った立花左近将監に伴い、兵法の見聞を深める為に天草へと来ていたと言う。
同名であることもあり、柴田と熊谷は、この旅で袖すり合ううちに非常に仲良くなり、帰り旅は道連れとなっていた。
ただ、この時は柴田が忠彌の朋友とは知らない熊谷。幕府に近い人物だと判断し距離を置いた。
熊谷は、四国へ渡ると言って柴田とは岡山で分かれて高松へと入り、阿波徳島から船で桑名へ向かうと、東海道を下りて江戸へと着いた。
早速、熊谷は正雪に呼ばれて、天草戦争の顚末を聞かれた。渡邊四郎太夫時貞の壮絶な最後と、焼け落ちる島原城で、森宗意軒から正雪への遺言を賜り、これを伝えた。
それは、やや遅れて、佐原十兵衛と永山兵左衛門と申す両人が、張孔堂を訪ねて来る。この二人ら武田の流れを組む火遁の術、地雷火を操る者である。
必ず、正雪の野望の役に立つので、仲間に加えてくれ。最期に、我、森宗意軒は島原城と共に果てる事となるが、必ずや正雪!お前も次節決起して、徳川の世を転覆させよ!お前なら必ずできる、と。
後日現れた佐原と永山を、正雪は内弟子として迎えるのだった。
この島原の一件、まずは、戦が始まると、張孔堂正雪が、その戦が起きる!と予見した事が噂されて、一味に助成しているのでは?と、悪い噂も立ち、世間も色眼鏡で見ていた。
しかし、長岡帯刀、諫早隼人を筆頭に、張孔堂の門弟や支援者が、少なからずこの戦に狩り出され十分な手柄を立て帰った事で、
当初の悪い噂が、終わってみると良い噂に変わり、張孔堂への入門希望者、正雪に一目逢いたいと申し出る金持ちの数は、益々、増えていった。
そして、柴田が西国から帰り戦を見聞した土産話と小田原で求めた初鰹を下げて、丸橋忠彌の道場へとやって来た。
忠彌もいたく喜び、酒を出して柴田の島原での戦話を興味深く聞き入ったが、柴田の話を聞き終えて、実は張孔堂正雪は、三百五十里離れた江戸で、一揆が起きる前にそれを予見したと言うと、
柴田は一笑して、それは張孔堂が一揆に内通していたからだと言って、忠彌の言う正雪が運気を読めると言う話に聞く耳を持たなかった。
忠彌は、不満タラタラだったが、その場は我慢して引き下がり、後日、柴田の事を話すと正雪も笑って、ならば柴田を張孔堂に招待しよう。運気が読める事を示してやればいいだけの事だ、と。
つづく