いよいよ、諸藝師範と言う肩書での張孔堂正雪の評判は、世間の尊敬を集め始める。こうなると、諸侯の当主クラスの面々が、一度は張孔堂と直接会って話をしてみたい!と、願うようである。
さりとても、紀州公は例外だが、井伊、本多、酒井、榊原、そして松平の徳川家譜代の面々とは、語らい合うと言う訳には行かない。
逆に、伊達、上杉、佐竹、毛利、浅野、黒田、有馬、脇坂などの衆と語らうと、まだまだ、この時代は、関ヶ原、大坂の陣の記憶が鮮明に残っている事もあり、
万事、胸襟を開き、語り合った秘密はなかなか口外される心配は無かった。しかるに、これら諸侯と正雪の間には、徳川家への不満を共有する絆が芽生えつつあり、これが張孔堂正雪の謀反の志を、より一層堅くさせていた。
更に、このような語らいの場に、丸橋忠彌は同席させられたので、正雪へな思いは強く、また、正雪からの自身への信頼も強く感じていた。正に義兄弟の契りを交わした間柄だった。
この後、忠彌が張孔堂を訪ねて泊まり一晩中正雪と語り明かしたり、逆に正雪が忠彌の道場を訪ねて碁を囲み、泊まり夜を徹して語り合う事が増えた。
そんな事を繰り返すうちに、正雪は自身が駿河で姓を受けて、生家吉岡が紺屋の染屋だった事や、武田信玄のお告げ、楠木正成との因縁なども語り、
また、長期に渡り日本国中を武者修行をして廻り得た貴重な体験や知識を、惜しむ事なく、忠彌に対しては語って聞かせた。
それが、忠彌にも嬉しく、遂にある時、自分は母方の丸橋の姓を名乗っているが、大坂の陣で我が兄を連れて京で決起した幽夢こと、長曽我部盛親は、我が父であり、私はその時六歳だったと告白する。
ここからが、正雪策士たらんところなのですが、自身が四国で武者修行していた頃に手に入れた物と言って、和歌の書かれた短冊を忠彌に見せる。
「見てのみや 人に語らん桜花 手毎に折りて 家つとにせん」
これは長曽我部盛親の詠んだ物であり、幼い自分が見た父の筆に間違いない!と、震えながら短冊に触れていた。
そして、民部之助は忠彌に言います。これより諸侯が所蔵さるる盛親公の御手による物を、私が買取、貴殿にお渡しする。それは、あるべき所へ、主人の元へ返す作業だから、と。
本当に、正雪は時折り、盛親公の手紙や、日記が手に入ると、これを忠彌に渡し、それを忠彌は手にする度に徳川家への怒りを増して行くのでした。
もう、勘のいい貴方はお気付きですね。そうです。一藝山賊に居た、あの偽筆名人!有竹作右衛門!!あいつを使って正雪が書かせた偽物です。
これは、頼朝公に平家打倒!を決意させた、有名な戦略だ!と、この本には書かれていました。何でも、北条政子が作らせた「義朝の遺骨」に騙されて決起したとか。
落語『火焔太鼓』に通じる偽物シリーズだと、私は思ったりしました。さて、いよいよ、次は新展開です。
つづく