寛永十年、正雪は張孔堂の諸藝師範として、江戸表において、派手な宣伝活動を勢力的に行った。諸大名、有力旗本を集めての茶会、多流派との武芸交流試合、そして剣の演舞。
更には、正雪自らが、書画・陶芸を嗜み、その作品の展示会を、豪商の主催で開き、現代のファッションショーのような振袖披露などと、共演(コラボ)した。
これらの活動で、由井民部之助正雪・張孔堂の名前は江戸表の隅々むで轟き、諸国で契りを交わした朋友、門弟が江戸表に入ると、真っ先に牛込榎町の張孔堂へと馳せ参じるのだった。
まず、叔母婿で駿河時代、民部之助の一番の理解者で最初の軍学の師であり、國光を授けた、叔父関ヶ原清兵衛が駿河より駆け付け、
続いて心強い朋友だった、金井半兵衛、熊谷三郎兵衛が門弟に加わる。更には、初めて正雪が弟子と認めた怪力の虚無僧・別木平之進改め、加藤市右衛門も西国での修行を終えて張孔堂に加わった。
更に更に、一藝山賊の中からも、有竹作右衛門、坪内左司馬をはじめ、曲者の面々が志を持って張孔堂の門を叩いた。
この時、張孔堂は、既に門弟数五千を超える集団であり、幕府老中、知恵伊豆コト松平伊豆守は、御庭番柳生但馬守に匹敵するこの新興勢力の警戒を始めていた。
そんな知恵伊豆の警戒を知ってか?知らずか?民部之助の対応も迅速だった。この五千と言う数字を超えない為の努力と、組織としての掟、法度を準備するのである。
まずは、文と武を上手く組織として理解出来るのですが、とかく組織にあると、腕力の強い者が幅を利かせ、非力な頭脳労働者は割りを食う!!それが組織の常であり、この弱点から組織は滅ぶモノである。
この論理を正雪は、骨身に染みて理解する類稀な指導者であった為、まず、組織を不傳時代よりも、更に細分化します。
例えば、不傳時代は、道場における門弟の立場は、こいつは学問向きだな?武藝向きだな?程度でしたが、民部之助が諸藝師範となってからは、
武藝であれば、剣術、槍術、薙刀、弓道、馬術、鉄砲、甲冑、小太刀、手裏剣、火薬、毒薬、忍術の類などなど、それぞれの道を極めた者を、正に一藝で評価する。
更に、この分野で正雪の優れた点は、この分野で、道具を作り整備する者を、使う者よりも、一段高い地位で評価して、採用した事です。
つまり、國光のような名刀は、正に、名刀を生める名工を育てないと作り出せないが、
それを使い熟す名人は、名工を生むよりは、遥かに容易い努力で見出せる!と考えたのです。
この仕組み・考え方は、張孔堂と言う道場自身を、大いに活性化します。剣客はこれまで、剣ありきで、その剣を使い熟す為の技を開発していましたが、
作る側がそばに居る事で、考え方が、大いに変化しました。つまり、剣客自身が考える理想の剣を、容易に手に入れる事ができ、
逆に、剣を作る刀工は、使う側の剣士の最小公倍数的な必要条件を知る事ができて、より飾りの剣ではなく、戦える剣を世に送り出せる様になった。
この関係は、張孔堂が誕生して三年もすると、恐ろしい早さで進化します。武器を作る側は、職人たちが、三十六軒の長屋に共同生活をして、互いの技術と情報共有します。
そしてこれまでも、刀は刀、槍は槍、鉄砲は鉄砲の造り手同士の交流、共有、共存はありましたが、刀と鉄砲、弓矢と薙刀の異文化交流は、ほぼ皆無でした。
それが、縦割りではない、武器と言う横軸の関係が生まれ、材料の入手から加工、互いの苦労を知り合うと、大きな括りでシナジー効果が、張孔堂には生まれ始めるのでした。
その様に組織された張孔堂は、甲冑製造の長は、叔父関ヶ原清兵衛が務め、弓は本吉新八、そして鉄砲は元雑賀衆の福原傳兵衛、又、槍は安見又兵衛といった具合に、
それぞれの分野で、作る側と使う側が、一体となったピラミッド型の組織が、今正に出来ようとしていました。これには当の正雪も嬉しく思うのでした。
そんな張孔堂の武芸各分野の部門長・エキスパートを、各藩は是非我が藩の指南役にと、申し出も増えて、江戸勤番・江戸詰めを条件に、これを受けて、二百石、三百石で召抱えられる門弟も現れた。
この様な環境が整う中、正雪自身は、紀伊家との交流を太く築いていた。もう少しで士官叶う所を、三浦長門守の鶴の一声で無い話にされた正雪。
そんな中、紀州家宣公との接見を実現してくれた関口隼人。その門弟で牧野兵庫、安田内記を始め、正雪とよしみの深い面々は張孔堂に足繁く通い、
一方で正雪自身も、紀州江戸藩邸には、身内のような扱いで門弟を伴い訪れる事、しばしばであった。大納言家宣公とも、接見を繰り返す民部之助を、長門守はさぞ、恨めしく思っていると推せられまする。
つづく