小川笙船は、悩んでいた。どう考えても、銀南が調製している薬は、無益無害な代物である。さにありながら、それを与えて十日か半月で治癒する患者が居るのだ!?

銀南は、自らの流派の秘伝だからと、鼻薬的な秘薬の材料を少々混ぜていると言うのだが、30年以上日本医学の第一線で活躍している笙船が見れば、あの薬で、重病患者を治せる筈が無い事ぐらいは容易に分かった。

ただ、結果が出ている事が理解できなかったのだ。なぜ?なぜ?と言う疑問だけが頭を駆け巡る、そん状態のまんま、この一年、銀南の様子を注意深く観察しているが、まるで糸口が見付からない。


人体実験疑惑が晴れて、患者が集まり出して、大工を入れて、所内を増改築した辺りから、突然、秘伝の薬とやらが現れた。

当時、小石川養生所の運営には、銀南が全面に当たり、笙船は主に幕府や奉行所とのお金や人の折衝に当たっていた。

それも、二年が過ぎる頃には軌道に乗り、笙船も患者を診るようになったので、銀南の治療の異常さに気付いてしまったのだ。


小川笙船は、大いに悩んだ。このまま、銀南を静観し放置すべきか?それとも、銀南が隠しているであろう秘伝を暴くべきなのか?

笙船の医師としての好奇心と欲望は、銀南の秘密に向かって更なる綿密な調査をする方に、彼を向かわせるのであった。


笙船「なかなか、一人での調査では埒が開かない。この所内の五人の医師のうち、誰かを仲間に引き入れて、銀南の秘密を、本人に気付かれないように探りたいのだが。。。誰がいいか?


玄白先生は、好奇心旺盛で引き入れ易い存在だが、かなりおっちょこちょいで、ガサツだから。。。偵察とかには向かない性格だなぁ〜。


良沢先生は、真面目過ぎる。口説いて仲間に引き入れられるのか?話の持って行き方を間違えると、水の泡って事も。


洪庵先生は、銀南と一番親しいから、持ち掛けると、薮蛇か?銀南に、私が探りを入れている事がバレてしまうと、元も子もない。


女医の未知子先生は、目立ち過ぎるよなぁー。


となると、やっぱり、青洲先生しかないなぁ!彼は私の事を尊敬してくれているし、訳をよーく説明すれば、必ず、協力してくれるはずだ!!」


笙船「青洲先生!ちょっと頼みたい事がある。今日の勤めの後、私の家に寄って下さい。」

青洲「分かりました。二階の重病病棟を見舞ってからになるので、六ツを過ぎますが、宜しいですか?」

笙船「構いませんよ。夕げの支度をさせて置きますから、食べて行って下さい。」

青洲「ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして。。。」


小川笙船の家に青洲が現れた。食事を二人で取りながら、笙船は青洲に、銀南の治療を不思議に思わないか?と、問いかけて、自身が抱いた疑問を説明して行った。

青洲は、元より「医は仁術」の思いが強く探究心も人一倍在るので、笙船の疑問の提起に深く頷き、尊敬する師を手伝って、銀南の秘密を暴いてやろう!と、決意するのだった。

その日は、酒を酌み交わしながら二人は、どのように銀南の秘密を探るか?綿密に作戦を練り練りして、夜が更けるのだった。


二人はまず、銀南が患者に与えている薬を集めてみた。


笙船「どうだ?何か分かったか?」

青洲「分かった事は、銀南先生の薬が、全く効かないと言う事です。」

笙船「どうやって調べた?クロマトグラフィーか?それともX線回折装置か?まさか!GC-MSじゃなかろうなぁ?!」

青洲「残念ながら、この時代に、そのようなハイカラな化学分析機器はございませんので、ごくごく、簡単な方法で。。。まっ、こちらをご覧下さい。」

笙船「なんだ?これは!?蜂か?」

青洲「はい、蜂は蜂ですが、スズメバチの女王蜂です。このように大変弱った状態で、蜂蜜と葛根湯を混ぜた練り薬を、このように口から与えると。。。

見て下さい!このように元気を取り戻して、羽をバタバタさせて、今にも、私に襲いかからんとするでしょう?先生!!

ところが、これが銀南先生が調合した薬ですが、これをスズメバチに与えても、全く元気には成りませんし、また、これ以上弱り死に至る事もありません。

つまり、この薬は、無益無害な薬だと思われます。」

笙船「言わんとする事は分かった。ただ、この事実を見せて、例え奴を問い詰めても、銀南は、秘伝でなぜ人を治せるのか?!これを決して白状はせんだろう?!」

青洲「はい、私もそうは思いますが、秘伝だと吹聴している薬の効き目はない事だけは、ハッキリしたと思います。更に!!

銀南先生が、薬を与えた患者が劇的に快方に向かうのが、必ず、朝なんです。昨日の夕刻まで、床から起き上がる事もできない、

掛布団が石で出来ていませんか?と、思うような入院患者が、薄紙を剥がすなんてもんじゃなく、突然、朝、治るんです!!これにも、何か仕掛けがあるはずです。

そしてもう一つ謎なのが、全員は治せないんです銀南先生。そうですね、六対四くらいの割合で、十人入院患者が居ると四人はあの世へ行きます。」

笙船「成る程!いい事に気付いてくれたねぇ、青洲くん!君を選んだ甲斐があった。銀南は患者に深夜か?早朝に何かをしていますね?

それが何かは、これから探るとして。。。問題なのは、その何かを使っても、治らない患者も居るんだねぇ。」


二人は、銀南の秘密の核心に近付きつつ有った。そんな二人の探索に、気付かない銀南では無かった。

少しずつ、青洲が銀南が調合した薬を盗んだ事に気付いて、二人の密会を盗み聞きし、この二人が自分の治療に疑念を持っていると知る。


暫く呪文は封印だなぁ。


この三年、毎月月末に退院させる為の呪文を使うのを、銀南は暫く控える事にした。それでも小石川養生所は常に飽和状態だ。

笙船が幕府や奉行所に呼ばれて、養生所を留守になる時を狙って呪文を使った。更に、二人の裏をかいて、昼間にこっそり使ったり、わざと三ヶ月、半年足元の死神を泳がせて、召還したりもした。

そんな三人のイタチごっこ、狐と狸の馬鹿し合いが一年続いたある日。それは突然やって来た。


与力、小杉平九郎の妻・りくが流行病で寝込んでしまい、平九郎自らのたっての願いで、りくは小石川養生所へ入院した。



つづく