銀南は、大岡忠相の招きで、数寄屋橋の南町奉行所内にある忠相の役宅に招かれた。

忠相が南町奉行となり、早くも四年の歳月が流れていた。将軍吉宗の「享保の改革」の真っ最中の事である。


忠相「これはこれは、銀南先生。遥々、遠い所をわざわざ江戸まで、足を運んで頂き、恐悦至極に存じまする。

拙者、南町奉行の大岡忠相でごさる。お初にお目に掛かる。この度、ここに在わす小川笙船(しょうせん)先生が、この春、目安箱に、幕府の養生所なる物を作る事を進言なされた。

これには、将軍様をはじめ、幕閣のご重臣全員が良き提案である!と、感服致し、秋の開業を目指して取り組む仕儀と相成り申した。


そこで、提案者でもある小川先生には、「肝煎」として手腕を発揮して頂くつもりであるのだが、それを補佐し医術に長けた者を、是非とも「所長」として迎えて欲しいとの願いが出された。

そこで、この三ヶ月あまり江戸に留まらず、各地の名医の噂を集めた結果。貴殿に勝る医師は、この日ノ本には居ないとの結論に達し、ここに、八代将軍吉宗公の命により、貴殿を新設・小石川養生所の「所長」に推挙する運びとアイ成り申した。

勿論、快く受けて下さいますよなぁ?!ご返答やぁ!如何に!!」


謹んでお受け致します。


それ以外の返事を許して貰えない空気を読んで、銀南は、その場で、小石川養生所の「所長」と言う役職を引き受けてしまった。


越前守も小川笙船も、さっき迄の難しい顔が嘘のように微笑み安堵する表情が伺えた。そして、越前守の合図でその場に膳部が運ばれ、宴の準備がなされたのである。

『多くぁー食わねぇ、たった一膳!』とすぐさま頭に浮かんだが、それも銀南は飲み込んだ。

そして、半刻程、やったり取ったりするうちに、銀南はこの小川笙船と言う医者が、亡き師匠、中橋町の良玄先生によく似た「医は仁術」を地で行く、博愛の精神を感じ取った。

この人が「肝煎」として養生所の世話役を務めて総監督の役を引き受けてくれるのならば、自分もその下で、実務をやるぞ!!と、心に決めた。

その日は、越前守から頂いた所長就任の祝金十両を懐に仕舞い、馬喰町に宿を取った。そして翌朝早くに、以前住んでいた貧乏長屋を訪ねるのだった。


銀南「大家さん!私です、銀南です。」

大家「どなたですかなぁ?」

銀南「私ですよ、六年前に、この長屋で死んだ、銀南です。」

大家「あぁ、なんだ、お崎さんの亭主だった、銀南。。。って、お化け!幽霊!!迷ったなぁ〜、それにしても、朝から化けて出るとは。。。

南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!。。。悪霊退散!ハァ〜、悪霊退散!ハァ〜。。。来るなぁ!!成仏せー!!」

銀南「申し訳ないけど、私は、生きています!!足もちゃんと在りますから。。。大家さん!!よーく観て下さい。幽霊じゃありません。生きています!銀南です。」

大家「そう言われると、ナリが違うなぁ、当時の銀南とは。そんな立派な着物を着た幽霊はおらん!それにしても、お前!今は何をしてるんだ!!

どーせ、ロクな暮らしはしておらんのだろう?!また、お崎さんに迷惑掛けて、相変わらずの穀潰しなんじゃろう?」

銀南「違いますよ。すっかり改心して、今は医者をしています。」

大家「あぁー、所謂、おタイコ医者ね。元々、幇間だったからなぁ、お前は。それで、おタイコ医者をしているって訳だ!!藪井竹庵とか、甘井羊羹、はたまた、薩摩終点とか名乗るんじゃろう?、アッ!もしかして、山本志丈?」

銀南「違います。ちゃんと脈を取り病を治す、真っ当な医者ですよ。大宮で開業していますが、江戸でも、私が名医だと言う噂は轟いてるんですから?!大宮の銀南と言えば、この業界では凄く有名なんですよ。」

大家「この業界って、どの業界だ!!嘘を付くな!!あのぐうたらで、千三だったお前を、誰が信じるもんか?!何が大宮の名医だ!!ワシは信じんからなぁー!!」

銀南「じゃぁー、これを見て下さい。ここに十両在ります。昨日、南町のお奉行、大岡様から頂いたご祝儀です。

更にここに、新しく幕府が作る養生所で、医師として働くに当たり、お奉行様からの招待状があります。しかも、肝煎の小川笙船先生に次ぐ、二番目に偉い所長として迎えられるんです。」


目を白黒させて、書状と銀南を七三に見ながら、大家は何度もその書状を読み返した。


大家「嘘じゃないらしいなぁー。しかし、まだ信じられん!夢じゃなかろうか?(頬を抓る)痛い!!夢じゃないようだなぁ。」

銀南「大家さん、この中から三両を差し上げます。私が死んだと偽り、香典を騙して取った詫びと言うかぁ。。。

本当に不義理をしました。この通り謝ります。そして、もう二両。これは、長屋の皆さんに返して下さい。」

大家「エッ!お前、本当にあの銀南なのか?時は人を変える事も有るとは言うがぁ、あのポンコツ銀南がぁ。。。重ねて信じられん。

貰った十両の半分を惜しげもなく、昔の長屋の衆に義理を欠いたと置いて行くような、江戸っ子らしい料簡に、何時生まれ変わったんだ?!お前は!!」

銀南「積もる話も有りますが、今日はこれで、大宮に帰ります。長屋の皆さんには、宜しくお伝え下さい。

小石川の養生所で働き始めたら、お崎と、息子の銀太郎を連れて、又、ご挨拶に伺います。大家さん、重ねて長屋の皆さんに宜しくお伝え下さい。」


そう言って、六年前に、死んだふりして掛け取りから夜逃げ同然に飛び出した長屋を訪れて、過去の過ちを悔いて、大家と長屋の衆に五両と言うお金を渡して、大宮へと帰る銀南。

帰った銀南は、江戸に戻り養生所の医師となる決意を、お崎と池田屋の皆さんにもお伝えした。するとすぐさま、池田屋の早苗、浦和の地主・徳兵衛が発起人となり奉加帳が廻された。


金二百両


銀南の人柄を表すかのように、集まったお金は、小判ばかりではく、銀や穴あき銭も混じっていた。

それどころか、金は寄進できない者は、ネギに大根、甘藍などなど、野菜を籠に入れて持って来た。

銀南は、この奉加帳で集められた金を、まずは、自身の診療所で働く弟子たちの退職金にした。

しかし中には、どーしても銀南の下で働きたいと申し出る弟子も多くあり、弟子の申し出を銀南は断れなくなった。

そして、八人の弟子を江戸へと連れて行きたいと、小川笙船に手紙で願い出る、この許しを得るのが銀南の最初の仕事になった。


享保七年、正月二十一日に、小川笙船によって目安箱に提案された、小石川養生所が、遂に、その年の晩秋、十月に開業する事になる。

肝煎に小川笙船、その補佐を務めるのは、我らが銀南。

銀南の弟子八人も無事雇われて、一方、奉行所からは、与力二名、同心八名、そして仲間と呼ばれる彼らが抱える奉公人がやって来た。


幕府初の養生所、小石川養生所。その運営のノウハウは、まだここには無く、プライドばかりが高い武士を相手に、それをゼロから構築する笙船と銀南には、これから想像もしなかった茨の道が待っていた。



つづく