今日は雨が降らない事を祈りつつ、南知多へツーリング。

今回は自転車乗りの皆さんに人気の知多広域農道を経由して野間大坊へ。

知多の広域農道は割と分かりづらいので、まずはスタートの目印になるセブンイレブンの知多岡田店へ。
ここでルートをしっかり確認して南へ。

ここからはのどかな高台の田園風景が広がります。

二箇所曲がるとこを間違えたものの、美浜PAの裏手を抜けた辺りからR247へ向かって約1時間ほどで
野間大坊(の裏手)に到着。

初めに客殿にお進み下さいとの事なので、真っ直ぐ奥へ。
お砂踏みから客殿。

ここには四国八十八ヶ所各札所のお砂が埋まっていて、歩けば四国八十八ヶ所をお参りしたご利益をいただけるそうです。って・・・
えっ?
それじゃ、お遍路さんって?
とか考えるのはやめて、次へ。
昭和天皇即位時の新嘗祭で建立された悠紀殿(移築)
本殿と観て回ってから一番のお目当の場所へ。


源義朝公の墓所。
たくさん奉納されているのは木刀です。

平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる際、立ち寄ったこの地で家臣である
長田忠致、影致親子
に討たれたとの事。

朝湯に入るように勧められ、そのまま風呂場にて丸腰で討たれた義朝公が
『無念。我に木の太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。』
と言い残して力尽きた事から、菩提を弔うのに木刀を供えるようになったとか。

今では
木刀を供えれば願いをかなえてくれるそうなので、天国で
長田親子をボコる義朝公を思い浮かべながら、交通安全をお願いして木刀を奉納しました。

他にも
義朝公の家臣、鎌田政家夫妻の墓。
義朝公暗殺前日に謀殺されたそうです。

平治の乱後、頼朝の命を救った池禅尼の塚。
頼朝はその恩を忘れず、父の墓所であるこの地に祀ったとか。

源平由来の墓だけではなく、
織田信長の三男
織田信孝公の墓など、メジャーな方々のお墓が並びます。

そういえば・・・

信孝公と言えば辞世の句が

昔より主を内海の野間ならば やがて報いん羽柴筑前

と、ストレートに恨みがこもって凄まじいです。

地名(打つ身と内海が掛かってはいますが)と人名がまんまってのは中々ありません。

秀吉死後、家康が天下を取り結果的に豊臣家は滅びるわけですが、信孝公の恨みも多少は和らいだでしょうか。

一通りお墓を観て回った後は
血の池。

なんとも物騒な名前の池ですが、義朝公を討った後、その首を洗ったことからこの名で呼ばれているのだとか。

ついでに
国に変事あれば赤くなるとか。
少し赤く見えるような・・

気のせいだと思う事にして野間大坊を後に。

意外と長文になったので、続きは後編にて。