4月になりました。
新しい環境でエラい人の訓示を聞く機会も多くなるかもしれません。
そうした訓示にしばしば登場するのが、「自分で考える」「自分の頭で考える」ことを大切にせよ……という教えです。「自分の頭で考える」——たしかにどことなくカッコよく、実践してみたくなる雰囲気をもっています。
しかし、「自分で考える」「自分の頭で考える」のは本当によいことなのでしょうか?
たとえば、フランス文学や映画の研究者であり、作家としても知られる蓮實重彥氏は、東京大学の総長を務めていたおりに、「自分で考える」ことに批判的なまなざしを向ける文章を書いています。
「自分ひとりで考え」たことなど「たかが知れている」というのは、まぎれもない事実です。人間が社会的かつ歴史的な存在である以上、それは当然でしょう。
実際、一つの思考は、一つの考える主体がいくつもの考える主体と遭遇し、そこでの葛藤を通して、初めて思考の萌芽的な可能性として形成されるものです。
あたかも、この宇宙に自分一人しか存在していないかのような孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢は、いかにもロマン主義的なものだというほかはありません。そんな姿勢の歴史的な役割は、遥か以前に終っているはずなのです。にもかかわらず、二〇世紀も終ろうとしているこの時期に、なお「自分で考えること」の重要さが改めて指摘されたりするのは、どうしてなのでしょうか。
それは、そう主張する者の歴史的な無知をあからさまに示しています。あるいは、その指摘で何か別の主張をしたいと思いながら、それにふさわしい言葉が見当たらないのか、それとも別の主張をしたがっている「自分」自身に無意識なだけなのかもしれません。
蓮實氏はこんなふうに続けます。
〈他者の存在を無視した「自分」だけの思考が、刺激的なものたりうるはずもありません。実際、「自分で考えること」が最初につきあたるのは、「自分ひとりで考え」たことなどいかにも貧しいものだという自覚なのです。もとより、そんなものは「たかが知れている」。同時に、「ひとりで考えて」いるはずの「自分」なるものを、「自分」自身が充分に統御しうるとは限らない事態にも自覚的たらざるをえないはずです。
学問の体系と歴史とは、まさに「他人が考えたこと」の総体にほかならず、それと親しく触れることなく形成された思考など、およそ思考の名には値しません。日常生活においても事態は変わらず、「自分で考えること」のほとんどは、すでにどこかで「他人が考えた」ことのくりかえしにすぎません。まさしくそのことの自覚のうえに、初めて「自分で考えること」の基盤が形成されるのです。だから、重要なのは、「自分で考えること」ではなく、あくまで
「他人とともに考えること」なのです。
