朝鮮王朝から大韓帝国へ
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日露戦争前の情勢(9)

日英同盟締結直後の韓国の情勢(2)

 1902年(光武6年、明治35年)の韓国内の出来事  
      Horace N.Allen 「A Chronological Index」より 

  1月    日英同盟締結
  2月    閔泳瓚がハーグ平和会議への使臣として出発
  3月    平壌に「西京」を建設する勅命が下りた
  4月    ソウル鐘路街で石碑と仏塔(パゴダ)の建設が始まる
           ロシアが清国との間で満州還付に関する露清条約を締結
  5月    第一銀行が「渋沢券」を発行し、韓国政府が異議を唱えた
           飢饉で飢えた人々が木の皮を食べていると伝えられた
           京義鉄道がフランス人監督のもと、独立公園で着工
  6月    日本の鉄道労働者がムーア司教、アッぺンゼラーを襲撃
           済物浦沖で球磨川丸が沈没、乗っていたアッペンゼラーが死亡
  7月    大韓帝国愛国歌を出版(編曲Franz Eckert)
           韓丹修好通商條約締結(韓国・デンマーク)     
  8月    皇帝の51歳の誕生日の祝典         
  9月    ソウルでコレラが流行、外国人2名、韓国人多数が死亡
10月    慶熙宮と慶運宮をつなぐ高架橋が西大門通りに完成
           李学均参将と士官が日本軍の姫路地方特別大演習を見学
           元ロシア公使ウェーベルが高宗の即位40年祝典の特使として来韓
11月    移民局設立の詔勅
           セブランス記念病院が定礎
           李容翊がロシア公使館に避難
12月    李容翊を免職の上、郷里へ放逐、16日赦免復職(内蔵院卿)
           李容翊が米の買い付けのため、ロシアの砲艦でサイゴンへ出発
           男女100名の韓国人移民が、ハワイに向けて出発
   

韓国人のハワイ移民

アレンの年表にあるように、この年の12月、韓国の男女100名余りが、初めて公式な移民としてハワイへ渡りました。
この移民計画にはアレン自身も深く関わっているので、今回は、この韓国人の公式移民について、韓国とハワイの事情、そして、アレンが果たした役割などについて取り上げてみたいと思います。
参照する資料は、国史館論集 第9集「韓国人のハワイ移民」(崔昌熙著)です。
長い論文なので、抜粋して要約するかたちで紹介したいと思います。


ハワイのサトウキビ農場で働く韓国人移民


〇 韓国人ハワイ移民の実態

韓国人がハワイへ行くことになった原因の一つは、当時の韓国内の経済的な状況にあった。 
韓国は、1876年の門戸開放以来、欧米の資本主義と、中国や日本の資本主義によって、二重の侵略を受けることになり、韓国の場合は、特に日本の資本主義に大きな影響を受けた。
韓国から日本へ輸出されたものは、米、豆、皮革、金などで、韓国は、日本の食糧と原料の供給源だった。
開港以来、日本への米穀の輸出量は増え続け、1896年には90万7千石、1897年には173万8千石と、約2倍に増加し、1899年には、韓国を襲った旱魃と洪水で農作物が大きな被害を受け、飢謹が深刻化したにもかかわらず、米43万6千石、大豆69万8千石、1900年には米113万 2千石、大豆88万5千石が持ち出された。
1901年にも、全国的な日照りによって米の生産量が減少し、飢謹が続いた。
高宗は、緊急でない土木工事は一切中止するように指示し、穀物の輸入を免税とする詔勅を発布する一方、防穀令を発布し、外部大臣の朴斉純が駐韓日本公使の林権助に一ヶ月後の防穀を通知したが、林公使は二ヶ月の実施引き延ばしを要求した。

 

※ 防穀令

開港直後の無関税貿易と、日本への穀物の流出による弊害を是正するため、1883年7月25日に締結された「在朝鮮国日本人民通商章程」の第37款に規定された、「もし朝鮮国に日照り、水害、兵乱などがあって国内の食糧の欠乏の恐れがあり、朝鮮政府がしばらく米の輸出を禁じたいと欲したときは、必ず一ヶ月前に地方官から日本領事館に通知しなければならない。そのときは、あらかじめその時期を港の日本商人に轉示し、一体に遵守させなければならない。」という約款に基づいて、一ヶ月前に告知して、産地からの米の搬出を禁じる命令を出すことができました。

1883年以降、防穀令は四十数回発布されています。

 


穀物の輸出禁止への要求は、都市の貧民層や農村の賃金労働者を中心に根強いものがあったが、韓国政府は日本側の要求に屈し、11月15日付で防穀令を解除した。
結局、1901年にも米138万9千石、豆84万6千石、1902年には米94万8千石、豆77万5千石、1903年には米103万7千石、豆64万7千石が日本へ持ち出された。
日本の継続的な米穀の搬出によって、1901年12月には各地方に飢饉が蔓延した。
1902年1月には、ソウル5署内の総人口19万3,606人中、十分の一を越える1万9,683人が飢謹に苦しみ、全国的にも、飢謹で木の皮を食べているという噂まで

広がった。
韓国政府は日本側に阻止されて米穀の搬出を拒むことができなかったため、外国米を導入することにした。
1901年5月、李容翊がベトナム米30万石を輸入し、1902年に1万7千石、1903年に6万5千石を輸入したが、食糧難を解消するには至らなかった。
1901年10月、高宗は飢えた人民を賑恤するために恵民院を設置し、12月には、

漢城に総恵民社を、地方各郡に分恵民社を設置するよう綸音を発布した。
10月6日には、高宗以下、皇太子、淳妃、英親王が2万元を下賜し、朝廷は12月

から翌年6月までの6ヶ月分の月給を削減して総恵民社に送った。
このような窮乏と飢謹が、農民や労働者が生計を維持するための移民を決心する

契機となった。
また、当時はコレラが流行し、多くの死亡者が出た。
コレラはソウルで流行し始め、1902年7月頃からは平安道で流行し、9月頃には

全国に拡散し、毎日、3~4百人の死亡者が発生した。
9月には、ソウルでコレラが猛威をふるい、20日にロシア通訳官が、26日には

オーストリア技師が死亡するなど、死亡者が続出した。
開港以降、資本主義の浸透と、清国、日本の略奪貿易によって農民層の零細化が

加速し、土地から締め出された流民や雑役労働者、埠頭労働者など、都市の貧民

層は増え続けた。
農村に残った農業賃金労働者や、都市、または開港場の雑役労働者、埠頭労働者

の生活は、劣悪な労働条件と低賃金のために困窮を極めた。
封建的支配層の貪虐と重税による収奪は相変らず続き、民衆の生活は改善するどころか、最悪の状況に陥っていた。
そこに重なった自然災害、日本への米穀搬出、そして土地の収奪による食糧不足と飢謹、コレラの流行などによって醸成された社会不安が、韓国民のなかに海外への興味を呼びおこした。

韓国人はなぜ見知らぬ異国の地ハワイに移住する気になったのか?
故国を離れてハワイに移住することを決心した動機には多様なものがあった。
移住者の階層別、職業別分布が多様なように、移住の動機も様々だった。
しかし、最大の動機は、やはり経済面にあったとみるのが妥当だろう。
韓国では食べていけなかったので、生きるために故郷を離れたのである。
開港場や都市の下層民も貧乏だったが、農村の小農、小作農、または雇傭農の生活も劣悪な状態だった。
例えば、黄海道海州の小作農で、生計をたてるのが難しかった移住者は、次のように振り返った。

「農作業と言っても、少し植えて、草取りをして、秋になれば刈り入れをして、それでも自分の土地なら多少は大丈夫。しかし、他人の土地で小作でもすれば、思うようにはならない。私たちは貧しいから、他人の土地で仕事するしかないし、死ぬほど働いてきたから、人生に楽しみなどあるはずもなくて…」

移住者たちは、あまりも貧しかった。
彼らは船賃などの移住経費を調達する能力がなかったため、東西開発会社(移民募集のために作られた会社)の移民募集に応じるときに、ハワイで労働をして、船賃の返済を誓約することで、開発会社が船賃を支払うことになった。
しかし、その船賃は、当時のハワイのサトウキビ農場の賃金水準からみると、移住民が返済するのは、とても大変な額だった。
そのような情況までは考えも及ばず、無条件にハワイに移住した人々が多かった。
移民に応募した人の多くは、米国ではお金が簡単に手に入り、金儲けもできて暮らしやすい場所だと信じていた。
多くの韓国人移住者は、早くお金を貯めて、自分たちの故郷に帰って良い暮らしをしてみたいという希望を膨らませていた。
彼らはハワイに永住するつもりなどなかった。
しかし初めの望みどうりに、お金を貯めて帰国した韓国人は、中国人や日本人に比べて、極めて少なかった。
中国人と日本人は、半数程度が帰国したが、韓国人は六分の一に過ぎなかった。
帰国した人々にしても、希望どうりにお金を貯めて帰って来た人よりも、短期間ではお金を貯めることができないことが判って、辛い労働と見知らぬ土地での生活をあきらめた人が多かった。
韓国人移住者の大部分は帰国もできずに定着するしかなかった。
彼らのなかには、単にお金を貯めることができなくて留まった人々もいたが、彼らが帰るべき韓国が、1905年の「乙巳條約」締結以降、事実上、日本の植民地になったため、帰国を断念した人々が多かったのである。

韓国人がハワイに移住した二つ目の動機は、政治的なものだったと考えることができる。
初期の韓国移民のなかには、日本の侵略によって植民地化されていく祖国の現実を目の当たりにして、悲嘆のあまり移住した人々が相当数いた。
1902年に日英同盟が締結されたあとは、多くの韓国人が、韓国を植民地化しようする日本の強い圧力を自覚しつつ、移民を決意した。
日本の侵略を直接体験した軍人や警察、政府官僚、東学党の残党、そしてキリスト教徒などは民族意識が根底にあって、ハワイへの移住を決意した。
1905年に家族と共にハワイに移住した백신규(ペク・シンギュ)の場合もその

一例である。
彼は平壌で裁縫技術を習い、一時、洋服店も経営した。
しかし、利益があがらず、生計を立てることが難しかった。
彼はキリスト教徒としてアメリカ宣教師に韓国語を教えた縁があって、アメリカについて、ある程度の知識があった。
ペク・シンギュは、「日本人が韓国に来ることが不満で、日本人を見るのも嫌で、韓国には展望もないし、子供たちの将来のためにも、アメリカへ行くしかない。」と決めた。
故郷を離れたくないという両親を残して、婦人と息子のミョンソン(7才)、娘の

ガンソン(5才)と共に、1905年4月9日、仁川をあとにした。
彼の話では、最初はロシア、次に日本の兵隊が怖くて、平壌から仁川まで夜通し

歩き続けたという。
また、日露戦争と前後して、大韓帝国の軍人のなかにもハワイに渡った者がいた。
「光武軍人」と言われた彼らのなかには、日露戦争の間に、日本が大韓帝国の軍隊を縮小した際に解職された者が多かった。
日本は日露戦争に勝利して、その勢いで駐屯軍が韓国政府を威嚇して、顧問の名目のもとに財政、外交、軍事、学務の面で、韓国を実質的に支配することになった。
彼らは侵略と支配を強化するため、韓国の軍隊を大幅に縮小した。
大韓帝国政府は、1900年10月から軍備を拡張、強化し、1905年3月頃には約2万5千人余りの兵士がいたが、1905年に曰本がこれを8千5百人まで削減した。
これは1907年に断行された韓国軍の解散のための予備的な措置だった。
このとき減員された軍人のなかから、かなりの人々が移住したらしい。
韓国軍が縮小される前に軍隊を離脱して、ハワイに移住した軍人もいた。
そもそも、縮小される前の大韓帝国の兵士は、編成上必要な人員を確保することができなかった。
特に、各地方に駐留した鎮衛隊は、一個大隊が1千人、一個中隊が2百人で編成されるはずだったが、実際は大幅に足りなかった。
一個大隊の兵士が100人ないし200人程度のところもあり、徴兵検査のときには、作男などを無理矢理に引張って来て、人員に加えるようなこともあった。
軍政の腐敗と人事行政の紊乱は深刻で、軍人が軍営を離脱して、勝手にハワイへ移住したのである。
彼らはハワイでも、お互いに身の上を隠していたので、正確な数は判らないが、ハワイ移民7200人中、500人の光武軍人が混じっていたという。
なかでも、縮小によって解雇されたり、または自ら離脱してハワイに移住した光武軍人は、日本に対して非常に強い反感を持っていた。
移住自体は、日本に対する積極的な行動と言えるものではないが、彼らは美洲韓人社會(アメリカの韓国人社会)が展開した民族独立運動で中心的な役割を果たすことになった。
彼らのうち、およそ200人がサンフランシスコを経て、カリフォルニア、ネブラスカ、コロラドなどに進出した。
彼らは、後に朴容萬がネブラスカ州のヘイスティングスに建てた韓国人少年兵学校をはじめとする各種の軍事学校で、独立軍養成のための教育と訓練を担当した。

 

 

朴容萬

 

※ 朴容萬(박용만:パク・ヨンマン、1881~1928)

 

1881年、江原道鉄原に生まれる。

1904年にアメリカへ渡り、ネブラスカ州のリンカーン高等学校に1年間修学。

1906年にヘイスティングス大学で政治学の学位を取得した。

1909年、カーニー農場で独立運動と人材養成のため、韓国人少年兵学校を設立。

1911年、アメリカで設立された「大韓国人国民会」の機関紙「新韓民報」の主筆として活動した。
1912年、ハワイに渡り、「大韓国人国民会」ハワイ地方総会の機関紙「新韓国報」の主筆として活動した。
1914年、農場を貸りて、同胞の青年たちが共同で耕作できるようにした。
また、抗日武装独立運動団体である「大朝鮮国民軍団」を組織して軍事訓練をおこない、独立戦争に備える要員を育てた。

1915年、「アメリカ革命史」をハングルで翻訳、出版した。
1917年、上海の申圭植・趙素昂などと共に「大同団結宣言」を発表し、臨時政府の樹立を計画した。
また、ニューヨークで開催された「弱小国同盟会」に参加し、祖国独立のための外交活動を展開した。

1918年、国際情勢の広報のため「太平洋時事」を創刊、主筆を務めた。

1919年、ホノルルに「大朝鮮独立団」を創立し、ソウルに「漢城臨時政府」が樹立された際、外務総長に選出された。
(韓国民族文化大百科事典)

 


平南出身の白一圭(백일규:ペク・イルギュ1879~1956)のように東学党の残党としてハワイに移住した人もいた。
彼は後にカリフォルニア大学を卒業し、新聞で言論に携わった。
日本の侵略を認められず、彼らの統治下で生きることができずにハワイへ移住した人々は、他の動機で移住した者よりも、数の上では少なったが、彼らは熱烈な愛国者で、排日思想に徹していた。
彼らは、教育を目的に移住した人々と共に、ハワイはもちろん、アメリカ各地の韓国人社会で指導層を形成し、韓国人の民族意識を鼓舞し、民族独立運動を主導していった人々だった。
ハワイで、1903年に「新民會」を結成し、サンフランシスコで「共立協會」を組織した人々の中心勢力は、まさに政治的な動機で移住した者たちだったといえる。

韓国人がハワイに移住した三つ目の動機は教育である。
彼ら自身のためだけでなく、子供のために、より立派な教育の機会を与えようとして、多くの人々が移住した。
当時の教育への熱意はたいへんなもので、アレンが1902年12月10日に米国務長官に送った手紙には、こう書かれている。

「教育に対する熱意があまりにも強く、良い家門の一族でも、教育の目標のため

 ならば、下賤な職業さえも拒みません。」

1970年代に行なわれた調査によれば、移住者全体の5%程度が教育を目的とした

渡航者で、概ね二十代の青年たちが多かった。
なかには寺小屋で漢学を勉強したあと、新しい学問に目覚めた人もいて、日本へ

行って日本人の開化した姿を見たり、日露戦争のさなかに世界情勢に関心を持った人もいた。
開城で高麗人参を栽培する父親を助けながら書堂で漢文を習った梁柱殷は、1902年の洪水と日照りで高麗人参栽培をあきらめ、ソウル、済物浦などを歩いていたときに移民計画を知った。
彼は、アメリカの先進文明に学ぶべきだと考え、第一次移民船に乗った。
平安道順天の商人の息子として生まれた朴処厚はカウアイ島の農場で仕事をして、1905年にアメリカ本土に渡り、肉体労働をしながら学業に精進し、1915年にネブラスカ大学を卒業した。
また、平安道の農村で生まれた尹応鎬は、14才まで寺小屋で漢文を勉強していたが、日露戦争のとき、日本軍の食糧を満州へ運んで世界情勢に目覚め、お金を儲けて外国への見聞も広げてみたいという夢を持って、1904年にハワイに移住した。

移民の四つ目の動機は社会的なものだった。
当時、韓国社会は儒教的家族制度の下で、様々な差別があった。
特に男女間の差別が厳しく、韓国の風習として、女性は男性に従わなかったため、女性の移民は多くなかった。
女性の地位は侮辱と蔑視のみで、権利などは考えもしない時代だった。
当時、このような男女差別の因襲から抜け出して、自らの権利と自由を取得しようという意識が芽生え始めた。
差別と虐待を抜け出そうとする意志は、少数ではあったが、女性たちが移民を決心する動機となった。

五つ目の動機としては、宗教があげられる。
第一次移民集団のうち半数がキリスト教徒であり、以後移住した移民全体のなかでは、キリスト教が早く伝来した平安道の人々が多かった。
韓国人のハワイ移住には、キリスト教が間接的な影響を与えた。
19世紀末、アメリカの宣教師が洋式の生活と近代科学を紹介したが、キリスト教の信者は、それらがみなキリスト教から出たものだと理解した。
そして、アメリカは希望の国で、平和で豊かなところだと考えた。
そして、抑圧と貧困に苦しめられ、より良い人生への欲求を持っている人々がキリスト教の信者になり、あるいは移民を決心することになった。
儒教の伝統と保守的な面を持っていた韓国人は、開港以後、次第に西洋文化と世界情勢に対する見識を深め、さらに一歩進んで国外移民まで考えるようになった。

外国へ移民した人々のなかには、国家と民族の危機も知らないまま、一身の幸福だけを図ろうとして、逃避した者もいたかもしれないが、多くの移住者は自ら明確な目的を持って、険しい航路を渡って移住した。
アメリカへ留学した朴容萬がハワイ行きの移民船に同乗したときに書いたものを読むと、当時の移住者の覚悟を垣間見ることができる。

「外面的には、たとえハワイのサトウキビ農場の農夫であっても、その内面を見れば、新しいものを求める一人の高尚な人間なのです。自分の家にいたときには困窮に勝つことができず、思いを遂げることもできなかった人が、今日、その険しさを乗り越えて、万里の大海も恐れずに渡って行くのですから、きっと確かな目的があって、ついにはその意を遂げる日が来るはずです。また、何も考えていない人たちでも、ときおり話を聞くと、みな故国を離れた思いは同じように胸にあり…」


〇 ハワイの状況と、移民導入の経緯

1778年1月、英国の探検家ジェームズ・クック船長がレゾルーション号とディスカバリー号を率いて北アメリカの西海岸への航路を航行中に、白人として初めて、

ハワイ島を発見した。
それ以後、ハワイ島は米国の宣教師たちの初めての対外活動地域となり、貿易船、捕鯨船の寄港地となり、コーヒー栽培やサトウキビ栽培などで注目を集めた。
1835年頃には、コーヒーの代わりに砂糖がこの島の主な産物になった。
サトウキビは昔から野生のものがハワイ島で育っていたといわれる。
クック船長が着いたとき、ハワイの住民は垣根や風防けとしてサトウキビを植え、旅行するときはサトウキビを切って携帯し、食事や水の代わりにしていたという。
1802年になって中国人が初めてサトウキビから砂糖を抽出した。
そして、1825年に西インドでサトウキビの栽培業に従事していたウィルキンソンがハワイに来て、ボキ酋長と合資して、サトウキビ農場を設立した。
1828年、農場がアメリカ人の会社に渡ったのを機に、清教徒派の宣教師の派閥に属するアメリカ人が砂糖産業に関心を持った。
グッドリッチ牧師がハワイ島に製糖工場を建てて以来、1840年にオアフ島とマウイ島にも製糖工場が建てられ、ハワイの原住民が栽培したサトウキビから砂糖を抽出した。
1835年にはアメリカのLadd and Campanyが進出し、大規模なサトウキビ栽培農場と製糖工場を造り、近代的で大規模な農場体制を整えた。
以後、清教徒派の宣教師はボストンの布教本部から資金と技術の提供を受け、1838年までに20個所の製糖工場を造り、1841年までに三万ドルを投資して事業を拡大した。
ハワイの砂糖産業は、アメリカの資本と原住民の労働力が結びついたもので、白人の農場主が原住民と雇用契約をして、サトウキビを栽培していた。
当初は砂糖の需要が多くなかったため、労働者の数も足りていたが、原住民が次第に減少し、反対に砂糖の需要が急増すると、労働力が不足し始めた。
1861年、南北戦争でアメリカ南部からの砂糖の供給が途絶え、北部では、ハワイ産の砂糖への要求が高まった。
これを機に、砂糖産業は「砂糖革命」といわれるほどの成長をみせた。
これに伴い、労働力不足が深刻化し、1865年、移民局を設立して、中国人労働者を導入した。
それ以後の10年間、砂糖の生産量は10倍に拡大した。
1876年から1885年までは中国人労働者の導入も急増した。
しかし、中国人は三年契約が満了すると、仕事を探して都市へ移動した。
1882年頃、ハワイに居住していた中国人1万4千人のうち、農場で仕事をしていたのは5千人程度であった。
1882年、アメリカは中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)を制定し、1883年には中国人のハワイ移住を数的に制限する法律を作った。

※ 中国人排斥法:ゴールドラッシュや鉄道建設のために低賃金で雇われた中国人

    労働者が夥しい人数となり、白人労働者の仕事を奪うことになったため、差別

    と虐待、暴行が始まり、大規模な排斥運動に発展した結果、成立した法律。
    中国人労働者の半数近くが中国へ帰ったため、白人の蛮行が知れ渡り、義和団

    事件の一因となったとの説もある。

この法律の制定によって、移民はもちろん、労働者が必要な農場主も大きな打撃をこうむった。
1885年、日本で初めて制度的な移民が始まり、1890年代初めには、中国人移民を凌ぎ、ハワイで最大の労働者集団となった。
1884年には116人に過ぎなかったハワイ居留の日本人は、それ以降急激に増加し、1890年には12,610人、1896年には24,407人、1900年には61,111人に達した。
しかし、農場主は日本人に対しては批判的だった。
日本人は差別待遇に我慢ができず、傲慢で民族主義的な面が強かった。
彼らは農場で不公平なことがあると、直ちに抗議し、共同でストライキをやって

作業を止めるのが常だった。
1890年と1897年には、28回もストライキをおこない、逃亡率も1895年には6%

に達した。
日本人は困りもので、信頼に足らぬ労働者だと評価されることになった。
農場主は再び複数の民族を採用する方法でこれを解決しようとした。
韓国人のハワイ移民は様々な人々の努力によって実現されたが、なかでも、駐韓

米国公使アレンの役割が最も大きかった。


アレン夫妻と書記官のパドック(左)

アレンは、1884年、韓国に赴任した最初の医療宣教師だったが、宗教よりは政治や外交に関心を持っていた。
1890年8月に、米国公使館の書記官に任命され、1896年に、高宗がロシア公使館に移るのを助け、高宗との関係がより深まった。
彼は高宗の寵愛を利用して、韓国政府に対する影響力を強め、できるだけ多くの利権をアメリカに与え、少しでもアメリカ政府が韓国に政治的、外交的関心を持つことを期待した。
彼は、外交家として、韓国でアメリカの勢力が伸びることに期待し、個人的にも、事業家と仕事をすることになれば、収益を得られることを知っていた。
アレンは他の外交官と同じように、「ドル外交」を支持していた。

※ ドル外交:資本力により、ラテンアメリカと東アジアに対外進出を図るという

    タフト大統領の外交政策

彼にとってのドル外交は、アメリカ国務省が韓国に積極的な関心を持つようにするという政治運動でもあった。
特に、1900年以降、驚異的に強くなった日本の影響力に対して、韓国の利権を調整して、韓国政府と経済を動かし、日本に反撃しようとしていた。
1902年には、英国と日本がロシアを相手に同盟を結び、日本は韓国での活動を増強しつつあった。
高宗もまた、韓国の独立が脅威にさらされることを恐れ、アメリカが韓国で積極的な政策をとることに期待した。
1902年2月、アレンはアメリカでの休暇から帰国する途中で、ハワイサトウキビ農場主協会(HSPA)の代表者たちに会うことになり、農場主たちから、韓国人のハワイ移住について助力してほしいとの要請を受けた。
アレンはタウンゼントを紹介したが、タウンゼントは、ハワイに韓国人を移住させるのは、契約労働を禁じるアメリカ移民法に違反すると言って断った。
アレンは、この計画がアメリカの法律に違反しているだけでなく、韓国の内政に干渉してはならないという指示に対しても違反していることを知りながら、参画することにしたのである。
農場主は、1900年にハワイ基本法(ハワイを準州として合衆国に編入する法律)が成立したあとも、契約労働を認めないという法律に違反するかたちで日本人を導入していたので、アレンも同じ方法で韓国人を導入することにした。
アレンは3月31日、アメリカの軍艦ニューオリンズの艦長と士官を同行して高宗に謁見した。
アレンに好感を持っていた高宗は、ハワイに移民を送ることに同意した。
アレンは1902年12月10日、アメリカ国務長官へ送った書信に、こう書いている。


「皇帝は、中国人が行くことのできないアメリカに、韓国人が行くことができるということを大いに誇りに感じているようです。昨年夏、本使が帰任して間もなく、皇帝が送った使者が訪ねて来て、アメリカには中国人は行けないが、韓国人は行くことができるというのは事実かと尋ねました。本使はそれは事実だと回答し、移民に関するアメリカ法、すなわち中国人入国禁止法、および契約労働者の禁止について説明しました。」

アレンは、すぐに募集スタッフの選定に着手した。
アメリカの法律にこだわらずに利益を追求する募集担当者が必要だった。
アレンは、農場主が法律に関して必要な保障を与えれば、喜んでやり遂げるであろうと考えて、デシュラーを選んだ。


デシュラー(David W. Deshler)

デシュラーは著名な金融界の家の出身で、オハイオ州フランクリンで最も裕福な人と言われ、継父のナッシュは州知事に選出された著名な政治家だった。
アレンとデシュラーは、1896年6月に、韓国で初めて出会った。
当時、デシュラーは、前年度の共和党の大統領候補だったマッキンリーの保証書を持っていたので、アレンは彼を鉄道事業に参加させるよう、モースとハントに提案した。
デシュラーはモースとハントに会うために、7月にニューヨークへ行き、9月に帰ってきて、ハントと共に雲山金鉱の利権を勝ち取った。


雲山金鉱

デシュラーは、アレンが駐韓米国公使になりたいと望んでいたことから、韓国で外交的に最高の地位にいる友人を持つことが事業上有利だと考えてアレンを助けることにした。
デシュラーの継父であったナッシュは、アレンが公使になる際に、大きな助力を与えた。
ナッシュは、20年間余り親密な付き合いがあった同じオハイオ出身の第25代大統領マッキンリーに、アレンが駐韓米国公使の適任者であると述べ、彼を任命するよう提案した。
ナッシュは、アレンにあてた手紙に、自分がマッキンリーに話をしたので心配はいらないと書き、デシュラーをよろしくと頼んだ。
1897年3月、民主党のシルが退いて、アレンが駐韓米国公使に昇進した。
こうしてアレンとデシュラーは、切っても切れない親密な関係となった。
デシュラーが韓国人のハワイ移民に関与したのには二つの理由があった。
一つは、仁川と神戸との海上輸送を独占していたことで、輸送を通じて利益をあげることができた。
もう一つは、HSPAが移民の人数に応じた手数料を支払う約束をしたことだった。
韓国人の移住は、農場主に労働力を提供して利益を与えたが、アレンにも利得が

あった。
1902年、日英同盟が締結されたあと、日本の韓国への侵略が深刻化した。
アレンは移民計画を推進することで、アメリカが韓国で利権を占める助けとなり、同時に、アメリカが膨張する日本勢力を牽制することに期待していた。
韓国人のハワイ移住のための準備が終わり、移民計画の着手に必要な事務をおこなうため、韓国への派遣要員としてビショップ(Eden Faxon Bishop)が選ばれた。
ビショップはHSPAの労働委員会で仕事をしていたので、砂糖産業の労働問題に精通していた。
彼はアレンの指示により、日本で、1894年の日本移民法の写本を手に入れた。
HSPAは、男性50人、女性25人未満、二才以上の子供10人を1グループとして、

4グループの移民を求めた。
農場主は移民法違反を避けるため、初めての移民集団には移民当局が土地を提供するという条件を付けた。
ビショップはまず、デシュラーとアレンに話をつけて、設立計画中の移民局と移民局法令を作成した。
11月中旬、高宗は勅令を出して、デシュラーにハワイへ韓国人労働者を送る権限を付与した。
これを聞いたビショップは、11月末、デシュラーと協定を締結した。
11月16日、大韓帝国政府は布達第90号で宮内府官制の一部を改正して、綏民院

(수민원:スミンウォン、유민원:ユミンウォンともいう)を新設した。

総裁(閔泳煥)、副総裁、監督、総務局長を各一名(勅任)
参書官三名、主事六名、委員(奏任)

韓国人のハワイ移民の決定と、移民関係法令と機構の創設には、前述のようにアレンの影響が非常に大きかった。
ビショップがHSPAに送った1903年1月2日付の報告書には、こう書かれている。
 

「デシュラーが話していたように、アレンが初志貫徹の人物でなかったら、私たちは目的を果たせなかっただろう。振り返ってみると、私たちは極めて幸運だった。移民法が頒布された直後に、ソウルの政府内で揉め事があって、政府の最有力者(李容翊)が罷免されたが、もしも、彼がロシア公使館に避難していなかったら、間違いなく暗殺されていただろう。当時、現地にいなかった人は、李容翊の罷免がどれほどの大事件であり、またどんな変化をもたらしたか、理解できないだろう。私たちの仕事がこの事件の前に完了していなかったら、際限なく遅れていたに違い

ない。」

綏民院の業務は、12月22日頃に始まったものとみられる。
しかし、度支部では財政の不足から、新たに設置された水輪院、平式院、管理署などと同じく、綏民院に対する1903年度予算が計上できなかった。
この年の4月初めまでは、綏民院がパスポートを発給していたが、間もなく、総裁の閔泳煥の署名ではなく、外部大臣が署名するようになった。
旅券発給業務が綏民院から外部に移され、綏民院は1903年10月11日に廃止されることになった。
当時、大韓帝国政府は極度の財政難に陥っていた。
毎月、役人たちに支給する月給も、外国の銀行や商社からの借款でしのいでいた。
したがって、事業予算はもちろん、官員の給料も出せない綏民院は、まともに機能できなかったことだろう。
総裁の閔泳煥が6月に礼式院長を兼任したことからも、すでに有名無実の組織になっていないのではないかと推測される。
綏民院は廃止されたが、ハワイ移民は続き、かえって、それ以後に移住した人々のほうが多かった。
アレンは1902年12月10日、ハワイ準州知事ドールに対して、それまでは韓国人が外国へ行くのに許可を取るのが大変だったが、韓国内の事情が変わり、移民を決めることになった理由を次のように説明した。

「私の考えは、冬の間にハワイで多くの韓国人が生活条件を改善し、もし条件に満足できる場合は、他の人も続けて行く準備をするということで、実験的に移民を行なってみようということです。去年の冬の過酷な飢謹で、彼らは移民を一層魅力的なものと感じ、一方で、政府が飢えている人に食べさせようと多量の米を輸入しなければならないという状態なので、移民ということに関して官吏も好意的に感じているように思われます。そして、中国人が追われたところへ自国の国民が行くということで、高宗皇帝の誇らしい気持も、おそらく関係していることでしょう。朝鮮人は忍耐多く、勤勉かつ柔順で、長い間の服従の習いから扱いやすい人たちです。通常、彼らは外国教育を受けることに対して積極的で、多くの人がアメリカに帰化しており、帰国した人もうまくいっており、それはアメリカの教育のおかげでもありました。もし、韓国の人々が行くことになれば、神が送った韓国人になることでしょう。私は彼らが順調に労働者としてやっていくことができると思います。」

デシュラーは韓国政府の許可を得て、移民募集のための東西開発会社(East & West Development Company)を設立し、移民の募集に着手した。
東西開発会社は、「商工業、農業分野の教育と視察、そして雇用を目的とする。」という広告を新聞に掲載した。
そして、仁川本社を中心に、ソウル、釜山、元山、木浦、鎮南浦などの港町に支店を置き、韓国人職員が歩き回って、各地の駅、教会、外国公使館などの人が集まる場所、または、通行が頻繁な場所に広告を出した。
このような広告を見て、または伝え聞いて、人々が移民の募集を知ることになり、関心を持つようになった。
しかし、当初は実際に応募する者は少なかった。
それは、募集期間が短く、広告の範囲が限られていたこともあるが、親戚と別れて、先祖の墓を捨てることはできないという保守的な慣習や、故郷から遠く離れて、知らないところへ行くという心細さもあった。
凶年が続いて飢謹に苦しめられても、先祖代々生きてきた故郷と家族に背を向けて異国に行くということは、当時の儒教的規範からも外れることだった。
したがって、移民自体、相当な勇気を必要とする冒険に違いなかった。
当時の韓国人は、正式な書類を持たずに満洲やウラジオストックなどに出入りしていたが、太平洋を渡って移住するのは初めのことだった。
ハワイ移住は、もしかしたら永遠に帰ってくることができないかもしれないという思いもあって、人々は躊躇していた。
アレンも、故郷に戻るという問題を考えずに、自国を離れることを決心するのは難しいということは知っていた。
また、当時は、人民が自分の国を捨てて、他国へ移住するのは軽挙妄動であり、祖国を裏切る行為だとみなす傾向が強く、移民に関しては、一般的に否定的な世論が強かった。
一般の人たちは、移住と子供の誘拐は、ほとんど変わらないとさえ考えていた。
支配層は、移住と聞くと、「冷遇」と「差別」を連想した。
1897年の秋、200人の韓国人が日本のボタ山で働くために出国したが、当時、独立協会は、韓国の下級労働者が日本人の会社に雇用されたことに反対はしないが、韓国人がすべての面で、公正かつ正当に処遇されなければなければならないと主張

した。
当時、韓国の知識人のあいだでは、アメリカの人種差別と、ハワイ農場での労働者に対する苛酷な待遇については、よく知られていた。
東西開発会社は、より積極的に宣伝をおこなった。
ハワイは一年中ずっと気候が変わらず、さわやかで、衣食住に苦労せず、楽しい生活ができるし、毎月支給される賃金の16ドルは、韓貨64ウォンにあたり、よい所得だと経済的な面を強調した。
しかし、宣伝と広告が広まらなかったため、反響は大きくなかった。
そこで、仁川の内里監理教会の牧師で、アレンと親しかったジョーンズ(George Heber Jones)に相談することになった。


メソジスト牧師 ジョーンズ

彼は非常に流暢な韓国語を駆使できただけでなく、韓国の歴史と社会風俗にも造詣が深かった。
後に、聖書の翻訳や英韓辞典の編纂もしている。
彼は教会の信徒にハワイの状況を説明して、ハワイへの移住を勧めた。
「ハワイの砂糖農場で労働することは、特に苦労することではなく、気候や風土も健康によい。」と説明した。
韓国人がアメリカに移民するというのは、神様のプレゼントだと熱弁した。
彼の説得効果は大きかった。
彼は教会の信者を通じて、彼らの知り合いや隣人たちを説得し、ソウルまで往来して、ハワイへの移住を推奨したとされている。
彼の韓国人に対する勧誘は、当時の監理教団とは関係なく、個人的な行動だった。
ジョーンズが移民募集に積極的だった理由はふたつ考えられる。
ひとつは、布教を目的に韓国人をハワイへ送り、福音の伝播をしようとしたこと。
もうひとつは、貧困に苦しむ韓国人の生活を改善する唯一の途はハワイ移住しか

ないと考えていたこと。
彼はアレンの努力に好感を持ち、綏民院総裁の閔泳煥にも接触していたという。
ジョーンズの説得の結果、韓国人の移民に対する関心が次第に好転し、移民募集

の展望は明るくなった。
そして、まずキリスト教徒と埠頭労働者が移民募集に応じた。
当時の皇城新聞は次のように報道した。

「最近、米国人が布教の開拓に需用する役夫を貞洞の米国公使館付近で募集したが、年少者数百名が応募した。旅券は綏民院が発給するという。」

仁川とソウルで応募した人々のうち、まず121人が移住者に確定した。
彼らは仁川、水原、富平などの京仁地域で応募した人々で、半分以上が仁川監理教会の教会信者だったという。
したがって、初期のハワイ移民はキリスト教の信者が多く、これが韓国移民の特徴になった。
キリスト教の信者はすでにサントゥ(髷)を切っていたが、ほかの人々は開発会社の勧めで、出発直前にサントゥを切った。
男たちは洋服を着た。
女たちは髪型や服装は変えず、チマ・チョゴリそのままの姿だった。
男の場合、日本で身体検査を受け、洋服を一揃い無償で支給された。
1903年に綏民院が閉鎖されてからは、旅券発給業務は外部が担当したが、実際は旅券発給を東西開発会社が代行していた。
移住者はパスポートを受けとり、東西開発会社の支社に集まり、仁川へ移動した。
1902年12月2日、ハワイ移民第一陣の121人が仁川港を離れた。
出発に先立ち、ジョーンズ牧師は移住者の勇気を奮いたたせるため、大きなテントを張って集会を開いた。
彼は移民に必要な知識を話し、何人かの指導者を選んで、ハワイ監理教会本部に

紹介状を伝達させた。
そして、綏民院総裁の閔泳煥をはじめ、官民が成功を祈って見送った。
形式的な身体検査を終えた121人は故国を離れ、大阪商船の玄海号に乗船した。
デシュラーと通訳の안정수(アン・チョンス)、정인수(チョン・インス)も同乗した。
移民一行は神戸港に到着し、再び身体検査を受け、予防接種も受けた。
身体検査で19人が脱落し、帰国措置がとられた。
通訳2人、男性54人、婦女子21人、少年少女12人、児童1人、乳児12人、合計102人の移住者が商船ゲーリック号に乗って神戸を出発し、ハワイへ向かった。
彼らは最下級の乗客だったが、キリスト教の信者が半分以上いたため、旅行中は、三等船室で祈祷会がおこなわれた。
1903年1月12日火曜日、深夜12時、ゲーリック号はホノルルの港に到着した。
ここで、ホフマン医師の検診によって、男性8人と妻5人、子供3人がトラコーマ(伝染性結膜炎)と診断され、帰国措置がとられた。
残った86人の移住者(男48人、女16人、子供22人)が移民検査官の審査を経て入国が許可された。
移民の一行は、オアフ島の西北側海岸にあるワイアルア農場へ行く列車に乗って、モクレイア幕舍に到着し、サトウキビの栽培や潅漑施設の建設などに従事することになった。
ワイアルア農場の管理人グッデールは満足し、韓国人移住者にも不平はなかった。
アジア系の移民に対して批判的だった新聞も、韓国人に対しては好意的だった。
韓国人移民が無事に入国し、新聞も好意的な反応で、農場主も喜んだので、ビショップはデシュラーに、次の移民も募集できるという希望に満ちた電報を送った。
デシュラーは1月中旬に韓国へ戻り、ハワイ農場主が送った農場と労働現場を写した宣伝用の写真を活用して、新たな移民募集に着手した。
それ以後、続々と移民団がハワイへ向かって旅立っていった。

2月  8日 第2次移民 120人
3月  1日 第3次移民   85人
3月  3日 第4次移民 124人
3月24日   第5次移民   73人
4月21日   第6次移民   61人
5月  3日   第7次移民   36人

ハワイ行き韓国人移民の応募者に対しては、厳しい身体検査が課された。
まず、仁川、鎮南浦などの地の東西開発会社が身体障害の有無と病気の有無を調査したが、ここで脱落者が発生した。
韓国で一次検査を通過しても、日本の長崎、神戸、横濱で二次検査を受けて、病気がある者は脱落した。
そして、10日余りの航海のあとホノルルに到着して、三回目の検査を受け、ここで不合格になれば、容赦なく韓国への帰還措置がとられた。
移民応募者の相当数が厳しい身体検査で脱落し、韓国へ送り返された。
このように身体検査が厳格だったのは、当時、韓国各地で蔓延していた伝染病の

ためだった。
1902年には、コレラ、腸チフスなどの悪性伝染病が全国的に流行した。
高宗は、7月26日、人民の衛生を保護する方策として衛生院を特設し、すべての

医者たちが誠意をつくして備えるよう指示した。
しかし、コレラと腸チフスの流行が拡大し、ソウルだけでも一日に200~300人の

犠牲者が発生した。
伝染病の流行の真っただ中で移民が行われたため、検疫当局の検査が厳しかったのである。
ホノルルの場合、伝染病が発見されれば、移民団全員を10日あまり隔離することもあった。


〇 その後の紆余曲折

最初の移民団が出発したあと、韓国では移民中止の動きが起こった。
韓国政府が移民を奴隷貿易とみなして、中止を求めたのである。
アレンは、これは日本の新聞が移民について虚偽の記事を書いたためで、仁川駐在日本領事の加藤本四郎と駐韓日本公使の林権助が流布させたものだろうと考えた。
高宗に奴隷貿易云々の上奏をしたのは外部協辧の朴鏞和だった。
アレンは、駐韓日本代理公使萩原守一が韓国人の移民に反対ではないことを確認したうえで、朴鏞和に対して、韓国人には移住者としての権利が与えられ、船上または、目的地で奴隷のように扱われることはないと伝えた。
しかし、数ヶ月後、李容翊によって、奴隷貿易論争が復活した。
親露派の代表的人物だった李容翊は、アメリカ人の韓国内での事業を非難していたので、アレンとは対立せざるを得なかった。
この頃、ハワイ移民は奴隷移民だという新聞の社説があった。
1903年5月12日の帝国新聞は韓国人移民の実情を次のように伝えた。

「韓国は距離も近く、また、初めてという長所があった。韓国人としては初めてのことだから、そこへ行けば直ちに立派な食事ができるものと思って、噂が広まると、東西南北もわからない愚かな人々が相次いで渡り始め、現在、仁川では七回目のハワイ行きの船が離れ、他の港でもこのような人々をたくさん集めて積み出している。私たちが考えるのは、我国ではどんな工事をするときでも、清国でなければ日本人の賃金のほうが安いといって、大勢呼んで使うのに、西洋人の立場なら、清国人や日本人を使うのが正しいはずなのに、どうして無数にいる彼らを使わずに、よりによって韓国にまできて、わざわざブローカーを呼んで募集に熱中しているのか理解できない。しかも、ハワイに渡っていった人々に、月給や労務賃をいくら厚く与えるといっても、その会社があらかじめ使った募集経費を返さなければならず、食べて、着て、数年の間儲けて、その会社への借金を返すだけのことであり、どれだけ仕事をすれば故郷に帰って来られるのか、気がかりこの上ない。悲しい話だ。われわれ韓国人がアフリカの奴隷のような境遇に落ちるとは、実にうらめしいことこの上ないではないか。誰もがこうした事実に互いに目覚めることによって、ハワイへ行く人があとになって後悔しないように話をしてくれることを願う。」

この報道について、アレンは外部大臣李址鎔と会談し、ハワイ移民はアメリカ移民法に抵触せず、奴隷に含まれる者は一人もいないと釈明した。
そして、移民のために、ホノルルに韓国領事館を設置することを提案したが、残念ながら、韓国政府はこの提案を受け入れなかった。
アレンの積極的な説得により、高宗は寵愛する李容翊の反対にもかかわらず、移民を中止しなかったし、新聞も再び反論を提起しなかった。
韓国人のハワイ移民については、日本人も反対した。
農場主は、ホノルルの日本領事館に韓国人導入の必要性を知らせ、アレンは、韓国で日本の外交官たちとの交渉に注力した。
農場主は、ホノルルの日本領事館と移民会社が、日本政府に対して、韓国人移民が日本人移民の利益を阻害しないことを説明するよう期待していた。
また、アレンは、1903年1月16日、駐韓日本代理公使萩原守一を訪問して、韓国人の移民が「実験的」であることを述べ、韓国人は故郷を愛するので、ハワイには永住しないだろうと説明した。
萩原は、日本人移民の権利が侵害されない限り、干渉しないことを約束した。
韓国人移民への日本の関心は、仁川の日本領事加藤本四郎から広がったようだ。
加藤の報告を受けた小村外務大臣は特に反応しなかったが、 2月中旬にソウルに戻った日本公使林権助は、高宗に謁見して、韓国人のハワイ移民について、日本人移民の邪魔になる非友好的な行為だと主張した。
日本政府が韓国政府に及ぼす影響を注視していたハワイ農場主は、林権助が韓国人移民に反対していることを知り、日本は、韓国人移民を中止させるほどの影響力があるのか、アレンが調べて仲裁してくれることを期待した。
そこで、HSPAはアレンに賄賂を送ることを提案した。
農場主はアレンが韓国移民への反対を克服しようと最善を尽くしていることを知っていたので、躊躇なく経済力を行使した。
当時、林権助の反対は、日本政府の政策ではなく、彼自身の主観的な行動だった。
したがって、アレンの努力で、移民は続いた。


〇 韓国人移民の特色

韓国人のハワイ移住の詳しい状況は、資料によっても記録が異なるため、正確には判らない。
年度別、性別、子供の統計数も異なって記録されている。
一般的には、1903年1月から1905年7月まで、ハワイホノルル港に到着した韓国人は7,226人だった。
年度別に見ると、1903年には1,133人(16回)、1904年には3,434人(33回)、1905年7月までは2,659人(16回)となっている。
7,226人の内訳は、男性6,048人(83.7%)、婦女子637人(8.8%)、子ども541人(7.5%)であった。
但し、そのうち479人(6.6%)が身体検査で脱落して帰国したので、実際の移民は6,747人だった。
ハワイ移民局の記録に基づく研究では、全移住者は7,296人であった。
また、1905年9月に大韓帝国政府が尹致昊を派遣して、韓国人のハワイ移住状況を詳しく調査した結果によれば、1902年から1905年7月1日まで、ハワイに渡った韓国人は、男6,536人、女474人、子供509人で、合計7,519人だった。

移住者の道別分布も、正確に判る資料はない。
ただし、尹致昊の報告資料によると、総移住者7,519人のうち、原籍に出身地名を記入していない人が3,170人おり、地名登録人は3,366人だった。
出身地名を登録した人の内訳は次の通りである。

京幾道 906人
平安道 696人
慶尚道 677人
全羅道 335人
黄海道 253人 
咸鏡道 196人 
江原道 155人 
忠淸道 148人

ソウル、仁川を含む京畿道の人が一番多く、当時、飢饉の状態がひどく、また、キリスト教の勢力が強かった平安道、そして、釜山、木浦、群山など、開港場を含む慶尚道、全羅道の順に移民が多かったのである。
比較的保守性の強い忠淸道では、最も少なかった。
徐々に都市化されていった京畿道地域、比較的早くキリスト教を通じて、西洋の文化に接し、認識するようになった平安道地域、門戸開放後に形成された開港場などに居住していた人々が多く参加していたことがわかる。
開港以前から農村経済の変化の中で、土地を失って流離していた農民が、開港後、急速に形成された開港場、または都市に進出し、埠頭労働者、雑役夫、または小商として生計を維持したが、これらの下層民が主な移民であった。
初期の移住者らと面談した研究によれば、移民のほとんどが都市の居住者であり、地方出身者は殆どいなかったという。
前述のように、東西開発会社はソウル、平壌のような大都市と開港場に支社を設置し、積極的に移民を募集していたので、都市の下層民は、東西開発会社の移民募集広告や宣伝に比較的容易に接することができた。
ハワイに移住した中国人や日本人は、ほとんど地方出身か、特定の地域の人々であったが、韓国人は主に都市居住者だった。
移住民の教育程度は、65%が文盲だった。
少し学んだ人は、キリスト教の勢力が強く、教育熱が高かった平安道、咸鏡道の出身者で、慶尚道・全羅道・忠清道などでは、教育を受けられなかった人々が移住したようだ。
移住者の身分や職業を明確に知ることができる資料も見つからなかったが、いくつかの著書や資料の中に初期のハワイ移民に対するインタビュー記録が収録されており、不十分だが、これらを通じて移住者の階層または職業をある程度理解することができる。
初期にハワイに移住した人は、ソンビ、士族末裔、光武軍人、下級官吏、警察、教師、牧師、政治的亡命者、通訳、東学残党、学生、農民、小作人、作男、商人、鉱夫、雑役労働者、埠頭労働者・日雇い、浮浪者、ゴロツキ、僧侶など多様だった。
移住民の中には一部、特権的な上流層も含まれていた。
前述のように、ソンビや士族の末裔もおり、光武軍人と税務官吏もいた。
この上流層に属する人々は、厳しい労働に全く慣れておらず、農場の仕事にも適しておらず、初めは苦労した。
しかし、彼らは教育には熱意を持っていた。
ハワイ移住民の中には商人層もいた。
要するに、当時、韓国社会のすべての階層の人々がハワイに移住したのである。
移住者の階層がこのように多種多様であった点と、キリスト教徒が多かったという点は、当時ハワイに移住した中国人や日本人とは異なる特色だった。


ジョーンズ牧師(前列中央)と韓国人の信徒たち (1906年、ホノルル)


また、ハワイに移住した韓国人の多くは、ほとんど教育を受けていない労働者や

農民などの下層民だったが、彼らは逆境のなかでも新しい生活の根拠地を定め、

立派な愛国者となり、日本の韓国侵略に抗議し、祖国が直面した危機を克服しようと、民族の独立運動に積極的に参加した。
このような韓国移住民の傾向は、中国人や日本人の移民に比べて独特の性格として注目される。
韓国人のハワイ移民は、農場主や世論からは歓迎されたが、韓国人労働者が日本人労働者と競争することに反対する日本政府の圧力により、1905年4月、韓国政府が移民禁止令を発布し、2年6ヶ月で幕を下ろすことになった。


(つづく)

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参考資料

国史館論叢 第9集「韓国人のハワイ移民」(崔昌熙著)
国史編纂委員会  우리역사넷(私たちの歴史ネット)イメージデータ
韓国民族文化大百科事典