中学時代に一度読んだのに何故記憶に残らなかったのか、訳本は目が滑って頭に入らないからだとわかりました。
66回も刷り直してるのなら、これほどの直訳でなくてもいいだろうと腹立たしくも読み進めます。
まず全体として、若いのに悟ったようなリルケの態度とお人好しな人柄は何故か嫌いじゃない。
とても深みのある内容に思わせて、意外と当たり前のことを繰り返す調子も、メッセージ性のある優秀な小説や映画のテーマもわかりやすく単純だったと思い返されます。
自分の孤独を深く見つめ人を愛する心、孤独な愛し方、というのは、リルケや若者のような表現者にはなくてはならないものかと思います。
ただ、「孤独な愛し方を知らない多くの若い人々」、という表現に思ったこととしては、時々の時代背景に沿った愛の形があるわけで、二十一世紀の今に孤独に人を愛する美学を求めるのは、周りとは違った現代に沿わない愛し方をする自分をヒロインにし、それに酔っているだけと思いました。
「たとえどんなに不可解なものを拒まないものだけが、他の人間に対する関係を生き生きとしたものとして生きることができ、・・・」という表現は、ぐさりと胸を刺されるような感覚を覚えました。私は自分と違うものや価値観と距離を離す悪癖があります。体への異物は許すのに、価値観に異物が入る感覚にあまり寛容ではありません。しばらくの課題だろうと思います。
「私たちは私たちのこの世界に対して不信をいだく何らの理由がありません・・・それは私たちの恐怖であり、・・・」「どうしてあなたはなんらかの不安、なんらかの悲しみ、なんらかの憂鬱を、あなたの生活から締め出そうとされるのですか、・・・」といった、これらの表現は、非常に心理学的な要素を含むものでして、リルケを近く感じられました。自己内観を絶やさずにいたリルケは、知識として知らずとも学問として知られる内容を自ら掘り起こしていたのだと思いました。
改めて、芸術と心理の双方に携わりたい私としては、それらの繋がりを目にしたような気がして嬉しかったです。
そして、いつだったか、人生に迷走した私は瞑想をしようと思い立ったわけですが、孤独と時の流れの遅さと不安に耐えかねて2日で断念したことを思い出しました。遠い山奥まで向かい、どこかの国の偉い方を(やはり親を殺して)小一時間ほど説得してようやく帰してもらったという悪夢のような2日でした。リルケのいう境地に到達するには、何度か生まれ変わらないと難しいかもしれません。