菊水千鳳さんが、もうすぐ牛嶋神社の記事を書いてくださるとのことで、とてもワクワクしております。
私の氏神様です。
お宮参りから七五三からお祭りから、いつも牛嶋さまと一緒でした。
以前台風で鳥居が倒れてしまったときには、そのかけらをお頒かちいただき、うちのお札置き場にいてもらっています。
撫で牛さんは、何度撫でたか本当にわかりません。優しいお顔が大好きです。
不思議なエピソードを2つ紹介します。
1・不思議な散歩
病に侵された祖母と最後のお散歩をしたのが牛嶋神社でした。
祖母を車椅子に乗せて、母と一緒に、ゆっくりと銀杏の絨毯を歩きました。
黄金色の絨毯がキラキラと輝き、それはそれは美しかったです。
(きっと祖母は今頃あのような美しい世界のいるのだと思います)
母は父と離婚しており、父は隣の区に住んでいるのですが、会うことはありませんでした。
その父が、なんと黄金色の絨毯の向こうから歩いてくるのです。本人です。偶然でした。
私も母も目が飛び出るほど驚きました。
普段車での移動ばかりで公園を歩くことなど滅多にないであろう父と、まさかこんな瞬間に親子3代揃った状態で出くわすなんて。
父は祖母に対して気さくで優しい人でもあり、
「こんなになっちゃったわよ」と祖母が言い
「まだかわいいよ」と笑って返すのです。
母が「何言ってんのよ」と笑います。
たったそれだけ、言葉を交わしてすれ違いました。
こんな偶然、あり得なすぎて信じられないです。
2・声が聞こえた
ある日、私が職場へ行く前、牛嶋神社に軽く参拝しました。
職場の人間関係で悩んでおり、少し邪魔に思えてしまう同僚のことが気になってしまいモヤモヤとしながらの参拝でした。
鳥居を出て境内を抜けて駅に向かおうとすると、急に、
道端にあるゴミ箱と切り株にギュッと私の目線が集中しました。ただのゴミ箱と切り株です。
視線を向かせられた、と思いました。
その瞬間
「そのようなものである」
と声が聞こえました。
普通に考えたら意味がわからないと思うのですが、考え方の概念が、わーっと頭に入ってきます。
ゴミ箱も、切り株も、何か目的があってここに立ちはだかるものではない。
ただただ、そこにいるだけである。
妨害する意図もなければ、誰かの役に立とうという意思もない。
ただただそこにいる。おのずから存在している。そのようなものだ。
同じように、私が苦手な同僚の方も、ただそこにいるものと考えてもよいのではないか?
ゴミ箱を、切り株を、わざわざ憎むものがいるか?
そんな馬鹿らしいことはあるまい。ただそこにいるだけなのに。
通行の邪魔にすらならないだろう。動かず端にいるだけなのだから。
そして、私の胸はすーっとしていき、これを書いている今、正直いってその同僚が誰だったのかも思い出せなくなっています笑
と、こんな感じで私にとっては霊験ある神社なのですが、
娘の呪いを解いてくださったとある零能力者(自称w)の方は、
牛嶋神社に御神体はいないと言っていたそうなのです。
それは本当なのか。
私の感覚では、撫で牛さんと、奥のお稲荷様はしっかりいらっしゃるように感じます。
でも、ご本尊様には縁が薄い感じがしています。
長命寺などの隣接のエリアは非常になんというか、良くも悪くも強い雰囲気があるのですが、
私が逆に子どもの頃から牛嶋神社に慣れすぎていて何も感じなくなっているのかもしれません。
菊水さんの答え合わせを心持ちにするとします。
アラハバキ様もずっと気になっていた大好きな神様なので、目が離せません。
しかしそんな牛嶋様に対して、娘の呪いを解いてくれた方は、
「神様はいない」と言うのです。