ごきげんいかがですか?
(^-^)
さて、本日、今朝半分以上書きかけた日記が見事に飛びまして、とりえず傷心のまりりんです。
o(><;)(;><)o
いえね、かなり力をいれて書いていたものが、飛んだ時、本当にやる気って見事になくなりますな。。。。。
∑( ̄▽ ̄;)
実はこの深層心理・・・・・
ん、まあ本日書きたい事の深層心理に繋がっているのですが・・・・・。
さてさて、2日程前の事、
風呂に入っていて、ん、まあ究極の事が心にふわ~~~~~~~~って浸透して、
腑に落ちたな~~~~って感覚になりました。
何が腑に落ちたっていうのは、
(注意:今日の内容はかなり誤解を生むものになる可能性があります。でもまあ、私個人の気付きなので、大目に見て下さいませ。)
愛 = エゴ
と言う事。
愛は、エゴである。
中学の時にならった、英語の文法だと、S → V → C、
S=C
もっと詳しく言うと、
人間の愛はエゴと同じである。。。
と言う事が深く、深く、なんだか、腑に落ちたんです。
説明するのが、かなり難解なので、本日は仏教の例えのお力をふんだんにお借ります。
因果の道理、という概念があります。
因果律・因果論とも言われます。
「因果」とは原因と結果の関係、人の幸福、不幸が何によって起きるか、その因果律の事です。
つまり、自分がまいた種が大根であれば、必ず大根が出来る。
大根の種をまいて、間違ってもにんじんは出来ない。
だから、自分の良い行いは、自分に戻ってきて、悪い行いも自分に戻ってくる。
その行いの「道理」とは、三世(過去世、現在世、未来世)十方(東西南北上下四維)において変わらぬ真理の事らしい。
だから、自分がこの日本に生まれた、という結果すら、それは前世の行いがまいた種だと言う事。
私は前世とか過去世を観る能力はありません。
しかしながら、一つこれがあると仮定して物事を考えてみたら、私の人生の中で、特に、本当に優しく美しい心を持っていた友人が、若い命を白血病と言う病で散らせた時、私には何で彼女がこんな目にあわなければならないのか、神はいないのか!
と、まだ中学生でしたが、思いました。
しかし、三世十方の理論が本当なら、この解らない現象に、一つの納得を仮定する事は出来ます。
そして、中国の諺の様に、「惠蛄春秋を知らず」というものが御座います。
夏の間しか地上にいない蝉に、春の事、秋の事を説明しても、蝉には理解する術がないという例えです。
私は、世の中で解明されていない事を否定する程、博識でも御座いませんし、メンデレーエフの周期表が発表された時も、メンデレーエフは全ての元素を発見したわけでなく、
彼は、この元素があるなら、この発見されていない元素があっても不思議でないという仮説をたて、のちに、その元素を発見してます。
ですので、私は自分が知りえない事を、否定する事は出来ません。
さて、では、この三世十方と因果の道理が真実だとして、人は善因善果を得るには、自分の行いで下記を積まなければならないと言われています。
布施(ふせ) - 人に物や法や親切を施す
持戒(じかい) - 言行一致
忍辱(にんにく) - 忍耐
精進(しょうじん) - 努力
禅定(ぜんじょう) - 反省
智恵(ちえ) - 上の五つの善をまとめたもの
さて、そうなんですが、つまり、上記の5項目を毎日行うと言う事は、つまり、究極自分の為。
自分自身の幸せの為。
ここら辺までは何となく私は今までも腑に落ちていました。
地獄と天国は同じだと言われています。
地獄の住人は長いお箸を持って自分で食べようとして、自分では食べられず、天国の人間は、長いお箸でお互いに相手にご飯を食べさせるので、ちゃんと満たされている。
確かに、だからこそ、その5項目の行いが大事で、それに日々これ精進を積むことこそ、
自分の人生の善果を生む。。。
でもね、私は人の知恵では、いくら “良かれと思って” した事であれ、それが本当に良い事になるのかは解りかねない事象が多々あります。
先日の日記に書きました、天災でがれきの下から命がけで救った人が、その方がご家族の中で唯一の生存者で、その方が数日後、絶望の中で自殺した話・・・
http://ameblo.jp/marisuzuka/entry-11161250802.html
等の例を見ても、私には、善行というものが一体何なのか、私の理解の限度を超えた問答になってしまいます。
余談ですが、命をかけてがれきの中から命を救った方ののち、語った事は以下でした。
彼女がした事は、その自殺した人に、残酷な現実を見せて、その絶望を味あわせただけの行為でなかったかと・・・。
つまり、人は全く善と呼ばれるものの行為、愛と呼ばれる行為は、結局エゴと言われても仕方がないのではないだろうか?
というより、そもそも一体何がエゴで、何が愛なのか、人間に本当に判断能力はあるのか?
この疑問を先日ある仏教講師の方に投げかけた時に、彼が、
人間にはそもそもその判断能力はない!
とおっしゃった時、私は確かにエゴと愛の区別はつかないと、気がついた事は前の日記でも書きました。
で、一体私の今回の気付きは実はここからなんですが、
(な、長い前置きですみません!o(><;)(;><)o)
人の愛とエゴは殆ど同じだとしたら、人は自分を愛すると言う事は殆どエゴ、エゴそのものと言えます。
そして、自分を愛する事がエゴの究極であり、しかし、その愛情は他に先ほどの5項目を行う事が肝要だとして、
つまり、人は遠くに離れた人であればあるほど、その5項目を行う事はたやすいのかもしれません。
自分と実は関係の全くない人には、愛と呼ばれる要素が、愛とエゴが一体のものであるとしたら、
一番簡単なのが、自分から離れた人に行う行為。
それも、その離れた人から、感謝の心とか、お礼とか、尊敬とか、お金とかが得られる行為。
例えば、天国の住人が、もし仮に10人いたとして、長いお箸で他人にご飯を食べさせていたとします。
その中の1人だけが、他人に与え続けていたにも関わらず、自分だけ無視されて、食べ物というエネルギーを与えられなかったら、その人は無償の行為を続けられるでしょうか?
世の中には、例え自分を犠牲にしての行為をしても、報われる時と報われない時があります。
そんな報われない時、人は自分を愛するが故に、エゴが前面に出ます。
この行為は毒だとよく言われますが、
でも、多分、それは生物として仕方がない。
人はエネルギーがなければ死んでしまう動物ですから。
では、人は自分を愛する為に他人が必要だとしたら、多分家族や仲間・・・・
を否応なしに欲するのかもしれませんし、又生まれた瞬間は、確かにお母さんと言う人がいます。
赤ちゃんを出産して、お亡くなりになる方もいますが、赤ちゃんがお腹の中で育っている時は、お母さんは生きています。
人は1人で生まれる事は出来ない。
そして、1人で育つ事も出来ない。
人は必ず人が必要。
家族がいて、年齢を重ねて恋人に出会い、結婚し、子供を産む。
愛と言う概念が、円の形をしていたとします。
そして、グラデーションの様に、中心部が濃い色をしていて、外に行くほど柔かい色になっていたとして、
つまり、自分の中心は愛、つまりエゴがとても濃い所にいて、それらに近い人・・・・というのは、自分に近い人なのではないだろうか。。。
無償の愛に見える行為も出来るし、そして、エゴイストとしての行為が出来うる。
又、この愛というエゴによって、未だ未熟な発育段階の子供は、
勘違いを繰り返し、イラショナルビリーフ、不合理な思い込みを抱え、インナーチャイルドとも言われるものを、作り上げてしまう。
良く、他人は自分の鏡だと言いますが、親、兄弟、配偶者、子供は最も自分を反映するものと言われ、私自身、父や母の私が嫌だと感じる事を私が同じ事を行う事が日常茶飯事です。
だからこそ、自分に近い関係と言うものは、自分とほぼ同じだから、
最も難しく、又最も大切にしなければならない関係ではないかと。。。。。。
人として生きる時の愛とは・・・
余談ですが、私の好きな作曲家の1人にマーラーと言う人がいます。
マーラーの第9番の最終楽章・・・・
マーラ―という作曲家は、自分の死が近い事をこの曲を作曲する時に知っていました。
この曲は彼の現世での思想や精神性の全てが感じられる曲です。
終焉は解放なのか、喪失なのか、それは私には解りかねます。
死が全てから離れて、宇宙の一部に帰ってくのなら、
三世十方・・・・・・
で、人が又それを繰り返して、生まれてくるのなら・・・・・・
愛と言うエゴをとことん深く味わって、人であるという事をしみじみ感じました。
これらが心から腑に落ちた事が私の大きな気付きでした。
愛 = エゴ・・・・・・。
誕生日を明日に控えた私にとっては、最も大きな自分へのGiftとなったようです。
(⌒▽⌒)/
では本日はこの辺で~~~~!
(ね、これを半分書きかけて、データーが飛んだら、そりゃ、涙ものでしょ???)
∑( ̄▽ ̄;)
ではでは!
(^-^) /

Un petit salon "La Place"
http://marilyn-laplace.jimdo.com/
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(^-^)
さて、本日、今朝半分以上書きかけた日記が見事に飛びまして、とりえず傷心のまりりんです。
o(><;)(;><)o
いえね、かなり力をいれて書いていたものが、飛んだ時、本当にやる気って見事になくなりますな。。。。。
∑( ̄▽ ̄;)
実はこの深層心理・・・・・
ん、まあ本日書きたい事の深層心理に繋がっているのですが・・・・・。
さてさて、2日程前の事、
風呂に入っていて、ん、まあ究極の事が心にふわ~~~~~~~~って浸透して、
腑に落ちたな~~~~って感覚になりました。
何が腑に落ちたっていうのは、
(注意:今日の内容はかなり誤解を生むものになる可能性があります。でもまあ、私個人の気付きなので、大目に見て下さいませ。)
愛 = エゴ
と言う事。
愛は、エゴである。
中学の時にならった、英語の文法だと、S → V → C、
S=C
もっと詳しく言うと、
人間の愛はエゴと同じである。。。
と言う事が深く、深く、なんだか、腑に落ちたんです。
説明するのが、かなり難解なので、本日は仏教の例えのお力をふんだんにお借ります。
因果の道理、という概念があります。
因果律・因果論とも言われます。
「因果」とは原因と結果の関係、人の幸福、不幸が何によって起きるか、その因果律の事です。
つまり、自分がまいた種が大根であれば、必ず大根が出来る。
大根の種をまいて、間違ってもにんじんは出来ない。
だから、自分の良い行いは、自分に戻ってきて、悪い行いも自分に戻ってくる。
その行いの「道理」とは、三世(過去世、現在世、未来世)十方(東西南北上下四維)において変わらぬ真理の事らしい。
だから、自分がこの日本に生まれた、という結果すら、それは前世の行いがまいた種だと言う事。
私は前世とか過去世を観る能力はありません。
しかしながら、一つこれがあると仮定して物事を考えてみたら、私の人生の中で、特に、本当に優しく美しい心を持っていた友人が、若い命を白血病と言う病で散らせた時、私には何で彼女がこんな目にあわなければならないのか、神はいないのか!
と、まだ中学生でしたが、思いました。
しかし、三世十方の理論が本当なら、この解らない現象に、一つの納得を仮定する事は出来ます。
そして、中国の諺の様に、「惠蛄春秋を知らず」というものが御座います。
夏の間しか地上にいない蝉に、春の事、秋の事を説明しても、蝉には理解する術がないという例えです。
私は、世の中で解明されていない事を否定する程、博識でも御座いませんし、メンデレーエフの周期表が発表された時も、メンデレーエフは全ての元素を発見したわけでなく、
彼は、この元素があるなら、この発見されていない元素があっても不思議でないという仮説をたて、のちに、その元素を発見してます。
ですので、私は自分が知りえない事を、否定する事は出来ません。
さて、では、この三世十方と因果の道理が真実だとして、人は善因善果を得るには、自分の行いで下記を積まなければならないと言われています。
布施(ふせ) - 人に物や法や親切を施す
持戒(じかい) - 言行一致
忍辱(にんにく) - 忍耐
精進(しょうじん) - 努力
禅定(ぜんじょう) - 反省
智恵(ちえ) - 上の五つの善をまとめたもの
さて、そうなんですが、つまり、上記の5項目を毎日行うと言う事は、つまり、究極自分の為。
自分自身の幸せの為。
ここら辺までは何となく私は今までも腑に落ちていました。
地獄と天国は同じだと言われています。
地獄の住人は長いお箸を持って自分で食べようとして、自分では食べられず、天国の人間は、長いお箸でお互いに相手にご飯を食べさせるので、ちゃんと満たされている。
確かに、だからこそ、その5項目の行いが大事で、それに日々これ精進を積むことこそ、
自分の人生の善果を生む。。。
でもね、私は人の知恵では、いくら “良かれと思って” した事であれ、それが本当に良い事になるのかは解りかねない事象が多々あります。
先日の日記に書きました、天災でがれきの下から命がけで救った人が、その方がご家族の中で唯一の生存者で、その方が数日後、絶望の中で自殺した話・・・
http://
等の例を見ても、私には、善行というものが一体何なのか、私の理解の限度を超えた問答になってしまいます。
余談ですが、命をかけてがれきの中から命を救った方ののち、語った事は以下でした。
彼女がした事は、その自殺した人に、残酷な現実を見せて、その絶望を味あわせただけの行為でなかったかと・・・。
つまり、人は全く善と呼ばれるものの行為、愛と呼ばれる行為は、結局エゴと言われても仕方がないのではないだろうか?
というより、そもそも一体何がエゴで、何が愛なのか、人間に本当に判断能力はあるのか?
この疑問を先日ある仏教講師の方に投げかけた時に、彼が、
人間にはそもそもその判断能力はない!
とおっしゃった時、私は確かにエゴと愛の区別はつかないと、気がついた事は前の日記でも書きました。
で、一体私の今回の気付きは実はここからなんですが、
(な、長い前置きですみません!o(><;)(;><)o)
人の愛とエゴは殆ど同じだとしたら、人は自分を愛すると言う事は殆どエゴ、エゴそのものと言えます。
そして、自分を愛する事がエゴの究極であり、しかし、その愛情は他に先ほどの5項目を行う事が肝要だとして、
つまり、人は遠くに離れた人であればあるほど、その5項目を行う事はたやすいのかもしれません。
自分と実は関係の全くない人には、愛と呼ばれる要素が、愛とエゴが一体のものであるとしたら、
一番簡単なのが、自分から離れた人に行う行為。
それも、その離れた人から、感謝の心とか、お礼とか、尊敬とか、お金とかが得られる行為。
例えば、天国の住人が、もし仮に10人いたとして、長いお箸で他人にご飯を食べさせていたとします。
その中の1人だけが、他人に与え続けていたにも関わらず、自分だけ無視されて、食べ物というエネルギーを与えられなかったら、その人は無償の行為を続けられるでしょうか?
世の中には、例え自分を犠牲にしての行為をしても、報われる時と報われない時があります。
そんな報われない時、人は自分を愛するが故に、エゴが前面に出ます。
この行為は毒だとよく言われますが、
でも、多分、それは生物として仕方がない。
人はエネルギーがなければ死んでしまう動物ですから。
では、人は自分を愛する為に他人が必要だとしたら、多分家族や仲間・・・・
を否応なしに欲するのかもしれませんし、又生まれた瞬間は、確かにお母さんと言う人がいます。
赤ちゃんを出産して、お亡くなりになる方もいますが、赤ちゃんがお腹の中で育っている時は、お母さんは生きています。
人は1人で生まれる事は出来ない。
そして、1人で育つ事も出来ない。
人は必ず人が必要。
家族がいて、年齢を重ねて恋人に出会い、結婚し、子供を産む。
愛と言う概念が、円の形をしていたとします。
そして、グラデーションの様に、中心部が濃い色をしていて、外に行くほど柔かい色になっていたとして、
つまり、自分の中心は愛、つまりエゴがとても濃い所にいて、それらに近い人・・・・というのは、自分に近い人なのではないだろうか。。。
無償の愛に見える行為も出来るし、そして、エゴイストとしての行為が出来うる。
又、この愛というエゴによって、未だ未熟な発育段階の子供は、
勘違いを繰り返し、イラショナルビリーフ、不合理な思い込みを抱え、インナーチャイルドとも言われるものを、作り上げてしまう。
良く、他人は自分の鏡だと言いますが、親、兄弟、配偶者、子供は最も自分を反映するものと言われ、私自身、父や母の私が嫌だと感じる事を私が同じ事を行う事が日常茶飯事です。
だからこそ、自分に近い関係と言うものは、自分とほぼ同じだから、
最も難しく、又最も大切にしなければならない関係ではないかと。。。。。。
人として生きる時の愛とは・・・
余談ですが、私の好きな作曲家の1人にマーラーと言う人がいます。
マーラーの第9番の最終楽章・・・・
マーラ―という作曲家は、自分の死が近い事をこの曲を作曲する時に知っていました。
この曲は彼の現世での思想や精神性の全てが感じられる曲です。
終焉は解放なのか、喪失なのか、それは私には解りかねます。
死が全てから離れて、宇宙の一部に帰ってくのなら、
三世十方・・・・・・
で、人が又それを繰り返して、生まれてくるのなら・・・・・・
愛と言うエゴをとことん深く味わって、人であるという事をしみじみ感じました。
これらが心から腑に落ちた事が私の大きな気付きでした。
愛 = エゴ・・・・・・。
誕生日を明日に控えた私にとっては、最も大きな自分へのGiftとなったようです。
(⌒▽⌒)/
では本日はこの辺で~~~~!
(ね、これを半分書きかけて、データーが飛んだら、そりゃ、涙ものでしょ???)
∑( ̄▽ ̄;)
ではでは!
(^-^) /

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