Noism「ASU~不可視への献身」金森穣新作 新潟公演

(※この文章は、昨年年末にfacebook に書いたものです。)
-------------------------------------------------------
2014年12月21日(日)15:00~
新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ劇場
Noismの新作「ASU~不可視への献身」を観に行きました。
金森穣監督、井関佐和子率いるNoism1による、10周年を経て「カルメン」から新たに進化した舞台に期待を込めて、雪の中、劇場へ。
予備知識なく、先入観のない状態で観たかったので、事前に何も見ず読まずに行く。
公演後もプログラムを購入していないので、解説などの予備知識ないままに、観たままの感想を、乱文にて思ったままに書いておく。
◆第1部は金森メソッドをそのまま作品にしてしまった Training Piece
以前、金森さんが対談で、「西洋バレイは縦軸が基本、だから自分はあえて床に横になるところから」というお話しをされていた。照明、鏡、機械的な音楽、ある意味、非人間的(のように見えるほどに)鍛錬され尽した肉体美。感銘を受けるのは、メンバー全員のその見事な統制。これは、365日×10年、金森穣とNoismが芸術創造とその為の献身的鍛錬で編み出した金森メソッドの10年目の集大成である、瞬間・瞬間に息をのむ。劇場を知り尽くしている、いや、もっと劇場を蘇らせてしまおうという貪欲で挑発的な悦びを、見る。
前半の無機質な動きから、やがて曲線へ。あらゆるテクニックを編み込んだ作品。
個人的には、座席のすぐ左わきのスピーカーから大音量で機械音が永遠に続くので、第1部の後半は、(音楽をやっている身には)耳に厳しく、左耳を押さえて観ていました。これは私自身の問題なので、舞台には関係ないことですが。
同じように動いていても、やはり井関佐和子さんは輝きが違う。勿論、全体と一体となって自分を消している時は全体が浮かびますが、自分が輝くべき時を、本能的に知っている。
照明や舞台が洗練されており、ミラノコレクションやパリコレのモードの世界を彷彿とさせる創り。とても鮮やかな「陽」。その対極となる「陰」が、第2部。
◆第2部「ASU」 ~不可視への献身
暗黒の闇、アルタイ民族の喉歌が鳴り響く中、地底深くから炎を神と崇めるかのような古代宗教的儀式が繰り広げられる。横たわる波打つ巨木は、どこか古代日本の男根神のようにも見える。漆黒の闇の中でゆれる炎は、見えないものを見せる力の象徴のようにも感じる。暗黒の時代。そもそも、古代日本でも、神は暗闇の中、儀式の門の中へ「音」とともに「おとずれ」た。(「闇」という漢字は、神が暗闇に音として訪れる儀式的な象徴がある)。暗闇ゆえに、視覚が極限までさえぎられているがゆえに、聴覚に訴える、あの神秘的な声と響きが、人間の根源的な本能を強烈にゆさぶってくる。ここは何処か。太古の人類が、まだ神々と共に生きていた時代か?光の届かない地底か洞窟か。儀式的な動き、恐れ、慄き。古代インドの神々の闘いを思わせる、大きな象に乗る戦闘民族。何か神々しい閃光に恐れおののく民。その中で、突如、男と女の出会い、人間的な愛、そして死。
今回の舞台で最も美しい、そして神秘的なシーンは、死からの復活・・・再誕の場。
井関佐和子が「はっ」と息を吹き返した後の、神々しさ。
まさに、千秋楽の日は、翌日が冬至と新月。日本神話での、太陽神アマテラスが岩戸に隠れ(光の死)、再びアメノウズメノミコトの舞によってアマテラス(光)が再誕する日であり、時期は違えど西洋や中東でいうところの、「エレウシスの秘儀」や「オルフェウス教の秘儀」、「ディオニュソスの秘儀」、(キリストもまた死と復活)、エジプトの女神イシスがオシリスを復活させたように、「死を経て、そして復活(再誕)する」という古代から最も人間と神々が近づく神聖な象徴的瞬間ともいえる、この時に、舞踊芸術によって、根源的な覚醒を目の当たりにすることが出来たことに、感動する。確かに、日本では太陽神を岩戸から再誕させたのは、アメノウズメの命の舞であった。国を超えて、人類の歴史には何処にも共通する太古からの宗教的儀式が存在する。形や形式の違いはあれ、全世界のどんな文明にも、どこか根底の部分で共通するものがある。それは、「死」と「再誕」に他ならない。
そもそも芸術とは、この「死と再誕」の儀式にほかならないのではないか。
思えば、今回のこのチラシは、まさに新月・冬至・死と再誕を象徴していたのだろうか。
不可視への献身。
Noismと金森穣、井関佐和子、新潟市民芸術文化会館。
新潟の、日本の誇れる芸術家達に感謝。
ソプラノ柳本幸子