去年の夏に、
「人生は聖なるコスプレだ」
と思うことがあった。
とある講座で知り合ったプロのカメラマン(あるいはその頃プロになりかけだったか。今はプロだ。そして友だ)の、フォトセッションを受けたときだった。
その感じが、約一年を経て、ちょうど回帰した感じがするので、これをブログの一日目にしてみたい。
その日、自分で申し込んだのに逃げ出したいような気分になり、「コスプレだと思おう!」と思った。
そうしたら気が楽になった。
人間をしていること自体、コスプレなのだと。
わたしは写真が超絶苦手だった。
思えばわたしはずっと、自分が好きじゃなかった。
だから自分を見たいとも、残したいとも、まして見せたいとも、あまり思っていなかった。
が、コスプレをしているわたしを、見るわたしとしてなら….
そこでいっしょけんめい生きる生物のわたしは、たとえわたしがどんなに不十分だと思おうが、かわいくいとしい。
それは一種の離人体験とも似ているけれど、それとはちがう。
自分を外に見る感じ。
そのとき自分に慈愛を感じる。
見ている自分は誰だろう?
そしてなぜかそのとき、弾いていないエレクトリック・ギターを、わたしは持っていった。
なぜかは知らない。
「人生はコスプレだ」
と思った時、ギターを手にしたのだ。
それがわたしにとって、「役」になる小道具だったのかもしれない。
自分としては、ままならない人生に辟易する。
やりたいことさえよくわからない。
が「そういう役の誰か」として自分をみるならば、人にはすべて配役というものがあり、ズレズレに見えようがそこがドンピシャの場所であるように思える。
そんな体感があった。
体感としか言いようのない、しっくり来る感じ。
弾いていないエレクトリック・ギターを抱いたとき、なぜだか、涙が出てきた。
「おかえり」
どこからかそんな言葉が聞こえた気がして、
それはギターがわたしに言ったのか、あるいはわたしが、ギターに。
ただいま。