1994年忍野
忍野で・・・かみさん 94年
ヒュンヒュンヒュンとロッドは僕の前後にしなって、そのたびにフライラインがシューシューと静かに音をたてながら伸びてゆく。それに合わせて左手は伸びるラインを引いてラインにかかる負荷を上げ、次の瞬間には逆に解放して負荷を弛めしたりしながら徐々にラインをリールから繰り出していく。僕の前後に飛んでいるフライラインは僕の身長の何倍くらいになるだろうか?
フライ歴が5年にもなるのに僕のキャスティングは少しも上手くならない。
たまにラインとロッドがぶつかる衝撃があるし、ラインが伸びきらないのにロッドを振り返しているからかリーダーやティペットが瞬間的に絡まって“パチン”と音もする。多分、ティペットに結び目ができただろう・・・。このまま水面に投入して下手に魚が釣れたりすればすぐにティペットは“プツッ・・・”と切れてしまうだろうと思いながらそのままロッドを振るのを止めない。
「チッ!」
自分の未熟さにイライラして舌打ちしながら前方の水面を見る。やや大きな魚のライズがある。ラインが伸びきったところでラインを自分の左手から解放させるとラインは5メートルほど先の水面に静かに着水する。別にライズをしたばかりの魚を狙っているわけではない。僕の前方でさえあるならばラインはどこに着水してもいい。
大体、僕の目的は魚を釣ることではない。魚が釣れない負け惜しみのようだが・・・実際魚を釣り上げたくはないのだ。生き物を傷つけたくない・・・釣りをしながらも、そんな偽善的なことを思うのだった。
初秋の忍野の川の中でこうやってフライラインを振っているだけで1週間の内に起こった嫌な出来事を忘れることができるし、また嫌なことが起きていなくても、生きているという感じがして僕は充分に幸福なのだった。
フライラインの先に付いたリーダーにティペットと呼ばれる透明で、か細い糸は、水面に着水するとすぐに大きなS字を描いて僕の方に流れてくる。ラインが水面で絡まないように僕は手元に少しずつ引き戻す。
ティペットの先のフライ(疑似餌)は、音をたてて割れた水面に消える。ラインはそれを合図にいきなり強い力で引っ張られて狭い川の水中を左右に走る。40センチぐらいのブラウン鱒が釣れたのだった。魚が釣れたとなるとげんきんなもので“魚を釣りたくない”気持ちは消え去って何としてでも釣り上げたいという気持ちが強くなる。
「俺はどうせ偽善者さ・・・」と呟きながらラインを手元に引き寄せる。さらに先ほどキャストで失敗したティペットの絡みが気になってくる。大きなブラウンであれば手早く魚を取り込まないと絡んで弱くなった結び目からティペットが切れる可能性が高くなるからだ。
バシャバシャと何度も水面を割って暴れるブラウンは元気が良くて、なかなか手元に引き寄せることができない。僕はロッドを立ててブラウンを水面に引き上げて空気を吸わせて弱らせようとするが、ブラウンはこちらの思い通りにはならない。
長い時間が経過したような気がする。やっと弱って水面に顔を出して大人しくなったブラウンを引き寄せると、僕は背中に吊るした大きめのネットを左手で引いて水中に突き刺す。ネットをそのまま水中で静かにスライドさせてブラウンを入れる。
ブラウンは「信頼している相手に裏切られた者」のような哀れな目で僕を見つめる。
僕は「悪いな」とブラウンに謝りながら彼の口にかかった小さな疑似餌の針をフォーセップで外すと首から提げた防水カメラで写真を撮ってから水中に逃がしてやる。手早に処理しないと魚は死んでしまうのだ。ところが手際が悪かったのかブラウンは口をポカンと空けたまま身動きひとつしないで、そのまま水面を流れて下流へと運ばれていく。
このときのブラウン
本当に・・・これだから魚を釣るのは嫌なのだ。「魚は神経がない」という釣り人がいる。本当にそうなのだろうか? と僕は思う。僕が釣ったブラウンは、おそらく僕の手際の悪さによって苦しめられてついには死に至ってしまったのだ。
本当に・・・これだから魚を釣るのは嫌なのだ。
人は身体の大きさによって生命の順番を決めているようだ。たとえば小さな蚊や蚤や虱や蠅であれば平気で彼らの命を絶ってしまうくせに、それが少し大きな生物や小動物になると急に殺すのを躊躇うようになる。それらが死ぬと涙して悲しむという場合も多くなる。
もちろん、それも人間による。小さな虫も殺せない人間もいれば、平気で人殺しができてしまう人間もいる。ただ・・・平均すると「命の重さは身体の大きさによる」という物差しはあるようだ。
僕は流れていくブラウンを見ながら「息を吹き返せ・・・お前は気絶しているだけなのだ」と願う。するとブラウンは息を吹き返したのかザッと水面を蹴って水中に消えたように見えた。
1994年頃・・・忍野での私
「塵のような半生を顧みる24歳の旅」 写真編
「太宰治 文学アルバム」著:長篠康一郎 発行所:広論社 昭和56年9月25日限定発行 定価:2000円 絶版だと思われます。
本日ネット検索していたら長篠さんが亡くなっていたことがわかりました。下記URLはお通夜の模様らしいです。http://kyotaro.web.infoseek.co.jp/sirayuriki/nk/nk20070219.html
「八木義之助 津軽 西海岸(五能線)旅草子」著:nk20070219.html八木義之助 写真:佐藤たつ子 発行所:秋田文化出版社 昭和56年6月20日発行 定価:1300円 絶版だと思われます。
この間からずうっと考えていたのですが、当時、なんで東北を旅行したのか・・・理由ですね。それを忘れていたんですよ。で、なんでだっけかなあ・・・っと思いながら部屋を片付けていたら、この2冊が出てきたんです。で、「太宰治 文学アルバム」を何気なくぱらぱらとめくっていったら、中から僕が当時書いた遺書(笑)が出てきたのです。
その遺書の内容は「もし俺が帰って来なければ~~全く関係無いけど今回の目的は 太宰→俺の故郷をたずねて三千里だから嫌だけれど 太宰と共にあの世に行っちまったと思ってください(一体、奴が死んで何年たってると思ってるんだろう) 俺に関係有る人に死んだって知らせてネ (妹の名前)82.3.10(俺の名前)」
なんだなんだこのへたくそな文章は・・・今でも変わんないか・・・けへ。
太宰治 文学アルバムを書店で購入して、それを読んで「太宰と僕自身を重ねた自分探しの旅に出る」気になっちまったと言うことですね。
ああ・・・情けない。すぐに影響を受けやすい自分が嫌になります。ただ、救えるのは流行を追わないタイプであるということだね。
ここでは一休みしてその本2冊の中身(一部ですが)を紹介しておきましょうね。
昭和56年当時の船橋の町 太宰治 文学アルバムより
昭和56年当時の青森市駅と駅裏のりんご市場 太宰治 文学アルバムより
太宰が幼いころに怖がったという地獄絵 太宰治 文学アルバムより
金木の斜陽館
僕が24歳に書いた遺書・・・凄く笑える
八木義之助 津軽旅草子
五能線 へなし(漢字変換できない)駅 八木義之助 津軽旅草子より
八木義之助 津軽旅草子の付録「津軽五能線絵はがき」
本日ネット検索していたら長篠さんが亡くなっていたことがわかりました。下記URLはお通夜の模様らしいです。http://kyotaro.web.infoseek.co.jp/sirayuriki/nk/nk20070219.html
「八木義之助 津軽 西海岸(五能線)旅草子」著:nk20070219.html八木義之助 写真:佐藤たつ子 発行所:秋田文化出版社 昭和56年6月20日発行 定価:1300円 絶版だと思われます。
この間からずうっと考えていたのですが、当時、なんで東北を旅行したのか・・・理由ですね。それを忘れていたんですよ。で、なんでだっけかなあ・・・っと思いながら部屋を片付けていたら、この2冊が出てきたんです。で、「太宰治 文学アルバム」を何気なくぱらぱらとめくっていったら、中から僕が当時書いた遺書(笑)が出てきたのです。
その遺書の内容は「もし俺が帰って来なければ~~全く関係無いけど今回の目的は 太宰→俺の故郷をたずねて三千里だから嫌だけれど 太宰と共にあの世に行っちまったと思ってください(一体、奴が死んで何年たってると思ってるんだろう) 俺に関係有る人に死んだって知らせてネ (妹の名前)82.3.10(俺の名前)」
なんだなんだこのへたくそな文章は・・・今でも変わんないか・・・けへ。
太宰治 文学アルバムを書店で購入して、それを読んで「太宰と僕自身を重ねた自分探しの旅に出る」気になっちまったと言うことですね。
ああ・・・情けない。すぐに影響を受けやすい自分が嫌になります。ただ、救えるのは流行を追わないタイプであるということだね。
ここでは一休みしてその本2冊の中身(一部ですが)を紹介しておきましょうね。
昭和56年当時の船橋の町 太宰治 文学アルバムより
昭和56年当時の青森市駅と駅裏のりんご市場 太宰治 文学アルバムより
太宰が幼いころに怖がったという地獄絵 太宰治 文学アルバムより
金木の斜陽館
僕が24歳に書いた遺書・・・凄く笑える
八木義之助 津軽旅草子
五能線 へなし(漢字変換できない)駅 八木義之助 津軽旅草子より
八木義之助 津軽旅草子の付録「津軽五能線絵はがき」
「塵のような半生を顧みる24歳の旅」 ①
1.
昭和56年。1981年。僕が24才の時です。当時僕は神奈川県大和市の自宅から二子玉川にあるショッピングセンター内のレコード屋に通って販売のアルバイトしていましたが、22歳から1年半勤めた仕事がなんとなくつまらなくなって辞める事にしたのでした。同時に東京で一人暮らしをしたいと思う様になって何社か面接を受けて、ようやく池袋西武デパートの画材売り場で販売の職を見つける事ができました。といっても西武デパートの社員ではなく、出入りの業者さんの会社に正社員として採用されたのでした。
まずは一人暮らしのために住むところを確保しなくてはなりません。僕は母親と一緒に、当時、ワンルームマンションの元祖とも言えるワンルームマンションのマルコーの新宿店舗に行きました。24歳にもなって母親と一緒に住むところを決めに行くなんておかしいですよね。というか当時、なんで母親が一緒についてきたのか今は思い出せないのです。僕はマザコンではないはずですからね(笑)。
それで新宿の落合にあったワンルームマンションで一人暮らしをする事になったのです。家賃は6万5千円くらいだったと思います。
脱線しました。今回はその24歳のときの旅行についてお話しさせていただきたいと思います。無駄遣いによって自己破産なんかする今では考えられないことですが、レコード屋でアルバイト中はしっかりと貯金していました。といっても最終的には50万円ほどのものでしたがね。レコード屋を辞めて、貯めたお金で一眼レフカメラを買いました。オリンパスのOM1のシルバーボディでした。一緒に35~105ミリのズームレンズも買いました。
それから残ったお金で旅行をしようと考えたのです。で、どこに行こうか? と考え抜いた挙げ句、自分が生まれ育った東北の街町を旅してみようと考えたのでした。
2.
僕はとりあえずは青森に向かう事にしました。それからはいきあたりばったりに宿泊しながら秋田や福島を旅しようと考えました。よく覚えていませんが、神奈川から上野に出て、上野駅から青森行きの電車に乗りました。おそらく急行か特急かと思いますが記憶にありません。驚いた事にこの翌年の82年に東北新幹線が開業するのです。
故郷を巡る旅ならば、本来ならば僕が生まれた福島県のいわき市からスタートしなければならないのですが、常磐線から東北本線だと面倒なので...省略して(笑)何度も書きますが、まずは青森まで直行したのです。
青森までの電車からの眺め...記憶にありません。記憶に新しい郡山には愛着があったので車窓をじっと見ていたに違いありません。それに続いて福島市も車窓を食い入る様に見ながら消えかかる記憶を辿っていたのでしょうね。福島市の後は母親の故郷である一関だったでしょうね。記憶が残っているときに紙に書いてりゃ良かったなあ。ま、いいや、いきなり青森市に到着です。青森市には小学1年から4年まで住んでいました。
青森に到着したのは夕方だったと思います。当時の青森駅周辺はかなり変わってはいたものの、それでも北の港町の侘しいと言うか貧しいと言うか、雰囲気は昔のままだったと思います。当日は薄暗くなっていたので、ビジネスホテルに荷物を置くと、買ったばかりのオリンパスOM1とOM102台を首にぶら下げて、まずは駅周辺に記憶の断片を拾いに出かけました。湊町の倉庫街...歩く人が少なく暗く侘しい無機質な風景。僕は思わずそくぞくしながらオリンパスOM1とOM10のシャッターを切りましたね。今でもこの時の写真がいくつか残っていますが、みなばらばらになってしまって...倉庫の写真は、さてどこに行ったのか(笑)?
3.
ここであることに気がつきました。これを書くに当たって昔の写真を引っ張り出してきたのですが、旅行に出かけた季節は冬というか初春だったのでした(笑)。写真を見たら雪が積もってるんですものね。しっかりしない記憶を辿ってみると・・・レコード屋を辞めたのが2月だったので、旅行は昭和56年の3月のことだったのですね。
残念ながら青森市街の倉庫や岸壁の写真を見つけることができませんでした。今後は残っている写真を見ながら当時を振り返っていきたいと思います。
昭和56年の青森市街は、子供のころの僕の記憶と合致するところがあまりありませんでした。なんせ僕が青森市に住んでいたのは小学1年生から4年生までですから6歳から9歳くらい? まででしょう? 昭和56年当時では・・・何年前のことだ??? 24から9引くと・・・???15? 僕は算数が苦手なのですよ(笑)。僕が24歳だった当時からは15年前のことだったんですね。15年前って、52歳になろうとしている今からだと・・・43年前! 昭和56年とすれば・・・28年前!!!かあ・・・そりゃ大変だ。こりゃだめだ。早く記憶に残っていることだけでも記録しておかなくちゃ。
青森に着いてまずは夕食を食べに外に出たのでしょうね。今は記憶にありませんが、ひとりで外食するのが苦手な僕は、たぶん、お客の少なくてなるべく人に接することがない・・・入りやすい食堂で食べたでしょうね。
僕は根っから人に接するのが苦手なので、宿泊はいつもビジネスホテルなんです。当時の旅行は青森市(ビジネスホテル)、青森県艫作:へなしと読みます(不老不死温泉旅館)、秋田市(ビジネスホテル:ホテルハワイってとこでした)、山形市(ビジネスホテル)と・・・4泊してるんですね。
ホテルに帰ってから、当時好きだった・・・というか振られたばかりの津田沼の理香ちゃんに送ろうと葉書に手書きで青森の地図を書いて、今青森に来ていますとかなんとか書いて出したんでしょうね。恥ずかしいですね。
4.
翌日は10時にビジネスホテルを出ると、まずは子供のころに住んでいた山田町を目指しました。
青森市で記憶に残っているのは駅周辺では一万トン岸壁と呼ばれていた青函連絡船の船着き場・・・ここでは友達と釣りに行って、釣れたクサフグに指を噛まれました、そして駅そばのりんご市場、始めてピータンを食べた中華料理屋、それを越えたところにあった神社の前で売っていたブリコ(ハタハタの卵塊?)の玉、妹と一緒に東北本線を走る蒸気機関車の煙をかぶりに行った駅そばの歩道橋、その踏切を越えたところにあった市場、当時住んでいた山田町という町、近くにあった駄菓子屋、しばらく歩くとせんべい工場(妹と一緒にせんべいの壊れたのを買いに行きました。うまかった)があって、その向こうには田んぼの真ん中にあったヘリコプターが着地するヘリポート、しばらく田んぼの中を行くと僕の通った甲田小学校、その側にある少年鑑別所、そこからかなり歩いて自衛隊の演習場でキノコ狩りに出かけました。ここでは縄文土器もたくさん取れましたよ。
駅側から東北本線の線路に沿って目的地を目指します。しばらく行くと、線路からどんどん離れていきます。僕の記憶は、こちら方向なのです。だいぶ歩くと神社がありました。懐かしいその趣き・・・久須志神社・・・この神社の前で売っていた“ブリコ”を妹と食べたんでしたね。記憶では神社から見て左に曲がってしばらく歩きます。しかし・・・当時とは車の交通量が違います。道路もなんだか広くなった気がします。歩いていくとここらあたりの風景は変わっていなかった記憶があります。さらに左に曲がって、少し先をまた左に曲がります・・・町名を見ると「北金沢町」とあります。うん? 僕の記憶では北金沢ではなく山田町だったはずです。
これが不思議なんですよ。当時、旅行から帰って父親(数年前に亡くなりました)に聞くと「山田町なんて住んでいないよ。町名は北金沢町だったよ」なんてしらっとした顔で言ったんですよ。じゃなんで僕は山田町なんてはっきりとした町名を記憶していたのか? 当時の記憶では住んでいた山田町の隣町が千刈:せんがりという町だった・・・のですが、これは今でもあるんですよ。センガリって変わった町名でしょ? これは存在しているんですよ。山田町ってのは青森市内にはないのですよ。うーん不思議です。
昔住んでいた家の土地には新しくなった家が建っていました。昔は四方を塀に囲まれた広い土地に建った木造の家だった記憶があります。塀の中には広い空き地があって、土管が2つぐらい置かれていた記憶があります。家の裏には大家だかなんだかの大きな家があって、大きな木がいくつも植えられていたのを覚えています。
しかし、この変わりようは何でしょう? この時期には写真のようにまだ雪がたくさん残っていて、土管が捨てられていた庭だと記憶していたところには雪が積もっていました・・・が、建て替えられた家が大きいのかその広かったはずの庭は僕の記憶にあるような広いものではなかったのですね。写真では広いように見えますがもっと広かったんだけどなあ。子供のころだから背も小さいし、みな大きく見えたんでしょうね。
5.
更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母 夢にもたどるは 故郷の家路
更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとりなやむ
窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遥けき彼方にこころ迷う
恋しやふるさと なつかし父母 思いに浮かぶは 杜のこずえ
窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遥けき彼方にこころ迷う
林芙美子は「九州炭鉱放浪記」で上記の「旅愁」の最初の詩を挙げています。林は幼いころに西日本のあちこちを引っ越しており、おまけに実父に裏切られた母親と一緒に貧乏人生のスタートを切っています。
僕が若いころに住んでいた上落合の隣町に中井という町があって、そこに林芙美子記念館なるものがありました。今でも同じ場所にあるようです。当時は興味がなくて一度も行ったことがなかったのです。聞けば林芙美子が住んでいた家だったと言います。
彼女の「放浪記」を読むと林は一生を故郷を探す旅をしていたようです。
放浪記は、冒頭「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」という書き出しで始まります。放浪記は三部構成となっており、それぞれがばらばらに書かれていて、さらにそれぞれは単独で刊行されているようです。すべてが林の生まれながらの孤独感を表しているようです。この僕も、幸い家は貧乏ではなかったのですが、“引越し回数が多い”という同じような境遇で育ってきたから林の放浪癖というか移ろいやすい性格というのが理解できます。
放浪記が当たって印税が入ると彼女の生活は裕福になるのです。結婚もしましたが、夫を捨てて別な男性を追いかけてフランスに渡ったりするのです。当時の文壇からはそういった性格が災いしてか嫌われてしまうのです。裕福になり、名声を得ても、人は本当に幸せというか満足できるところまでに到達できないのですね。
6.
また脱線してしまった。僕の24歳の旅です。
幻の山田町をうろついてから母親と買い物をした線路脇の市場に向います。それにしても人がいません。平日なのだから仕方がないのです。僕はまだ雪が残った道をすべって転びそうになりながら歩きました。市場に向かう道は記憶にあった通りでした。子供のころのことを思い出してちょっと泣けました。
途中、鶴田外科という病院があります。これは昔のまま残っていました。この病院の娘さんと僕は同級生でした。なかなかきれいな子で当時は好きだったかもしれません。
昭和56年。1981年。僕が24才の時です。当時僕は神奈川県大和市の自宅から二子玉川にあるショッピングセンター内のレコード屋に通って販売のアルバイトしていましたが、22歳から1年半勤めた仕事がなんとなくつまらなくなって辞める事にしたのでした。同時に東京で一人暮らしをしたいと思う様になって何社か面接を受けて、ようやく池袋西武デパートの画材売り場で販売の職を見つける事ができました。といっても西武デパートの社員ではなく、出入りの業者さんの会社に正社員として採用されたのでした。
まずは一人暮らしのために住むところを確保しなくてはなりません。僕は母親と一緒に、当時、ワンルームマンションの元祖とも言えるワンルームマンションのマルコーの新宿店舗に行きました。24歳にもなって母親と一緒に住むところを決めに行くなんておかしいですよね。というか当時、なんで母親が一緒についてきたのか今は思い出せないのです。僕はマザコンではないはずですからね(笑)。
それで新宿の落合にあったワンルームマンションで一人暮らしをする事になったのです。家賃は6万5千円くらいだったと思います。
脱線しました。今回はその24歳のときの旅行についてお話しさせていただきたいと思います。無駄遣いによって自己破産なんかする今では考えられないことですが、レコード屋でアルバイト中はしっかりと貯金していました。といっても最終的には50万円ほどのものでしたがね。レコード屋を辞めて、貯めたお金で一眼レフカメラを買いました。オリンパスのOM1のシルバーボディでした。一緒に35~105ミリのズームレンズも買いました。
それから残ったお金で旅行をしようと考えたのです。で、どこに行こうか? と考え抜いた挙げ句、自分が生まれ育った東北の街町を旅してみようと考えたのでした。
2.
僕はとりあえずは青森に向かう事にしました。それからはいきあたりばったりに宿泊しながら秋田や福島を旅しようと考えました。よく覚えていませんが、神奈川から上野に出て、上野駅から青森行きの電車に乗りました。おそらく急行か特急かと思いますが記憶にありません。驚いた事にこの翌年の82年に東北新幹線が開業するのです。
故郷を巡る旅ならば、本来ならば僕が生まれた福島県のいわき市からスタートしなければならないのですが、常磐線から東北本線だと面倒なので...省略して(笑)何度も書きますが、まずは青森まで直行したのです。
青森までの電車からの眺め...記憶にありません。記憶に新しい郡山には愛着があったので車窓をじっと見ていたに違いありません。それに続いて福島市も車窓を食い入る様に見ながら消えかかる記憶を辿っていたのでしょうね。福島市の後は母親の故郷である一関だったでしょうね。記憶が残っているときに紙に書いてりゃ良かったなあ。ま、いいや、いきなり青森市に到着です。青森市には小学1年から4年まで住んでいました。
青森に到着したのは夕方だったと思います。当時の青森駅周辺はかなり変わってはいたものの、それでも北の港町の侘しいと言うか貧しいと言うか、雰囲気は昔のままだったと思います。当日は薄暗くなっていたので、ビジネスホテルに荷物を置くと、買ったばかりのオリンパスOM1とOM102台を首にぶら下げて、まずは駅周辺に記憶の断片を拾いに出かけました。湊町の倉庫街...歩く人が少なく暗く侘しい無機質な風景。僕は思わずそくぞくしながらオリンパスOM1とOM10のシャッターを切りましたね。今でもこの時の写真がいくつか残っていますが、みなばらばらになってしまって...倉庫の写真は、さてどこに行ったのか(笑)?
3.
ここであることに気がつきました。これを書くに当たって昔の写真を引っ張り出してきたのですが、旅行に出かけた季節は冬というか初春だったのでした(笑)。写真を見たら雪が積もってるんですものね。しっかりしない記憶を辿ってみると・・・レコード屋を辞めたのが2月だったので、旅行は昭和56年の3月のことだったのですね。
残念ながら青森市街の倉庫や岸壁の写真を見つけることができませんでした。今後は残っている写真を見ながら当時を振り返っていきたいと思います。
昭和56年の青森市街は、子供のころの僕の記憶と合致するところがあまりありませんでした。なんせ僕が青森市に住んでいたのは小学1年生から4年生までですから6歳から9歳くらい? まででしょう? 昭和56年当時では・・・何年前のことだ??? 24から9引くと・・・???15? 僕は算数が苦手なのですよ(笑)。僕が24歳だった当時からは15年前のことだったんですね。15年前って、52歳になろうとしている今からだと・・・43年前! 昭和56年とすれば・・・28年前!!!かあ・・・そりゃ大変だ。こりゃだめだ。早く記憶に残っていることだけでも記録しておかなくちゃ。
青森に着いてまずは夕食を食べに外に出たのでしょうね。今は記憶にありませんが、ひとりで外食するのが苦手な僕は、たぶん、お客の少なくてなるべく人に接することがない・・・入りやすい食堂で食べたでしょうね。
僕は根っから人に接するのが苦手なので、宿泊はいつもビジネスホテルなんです。当時の旅行は青森市(ビジネスホテル)、青森県艫作:へなしと読みます(不老不死温泉旅館)、秋田市(ビジネスホテル:ホテルハワイってとこでした)、山形市(ビジネスホテル)と・・・4泊してるんですね。
ホテルに帰ってから、当時好きだった・・・というか振られたばかりの津田沼の理香ちゃんに送ろうと葉書に手書きで青森の地図を書いて、今青森に来ていますとかなんとか書いて出したんでしょうね。恥ずかしいですね。
4.
翌日は10時にビジネスホテルを出ると、まずは子供のころに住んでいた山田町を目指しました。
青森市で記憶に残っているのは駅周辺では一万トン岸壁と呼ばれていた青函連絡船の船着き場・・・ここでは友達と釣りに行って、釣れたクサフグに指を噛まれました、そして駅そばのりんご市場、始めてピータンを食べた中華料理屋、それを越えたところにあった神社の前で売っていたブリコ(ハタハタの卵塊?)の玉、妹と一緒に東北本線を走る蒸気機関車の煙をかぶりに行った駅そばの歩道橋、その踏切を越えたところにあった市場、当時住んでいた山田町という町、近くにあった駄菓子屋、しばらく歩くとせんべい工場(妹と一緒にせんべいの壊れたのを買いに行きました。うまかった)があって、その向こうには田んぼの真ん中にあったヘリコプターが着地するヘリポート、しばらく田んぼの中を行くと僕の通った甲田小学校、その側にある少年鑑別所、そこからかなり歩いて自衛隊の演習場でキノコ狩りに出かけました。ここでは縄文土器もたくさん取れましたよ。
駅側から東北本線の線路に沿って目的地を目指します。しばらく行くと、線路からどんどん離れていきます。僕の記憶は、こちら方向なのです。だいぶ歩くと神社がありました。懐かしいその趣き・・・久須志神社・・・この神社の前で売っていた“ブリコ”を妹と食べたんでしたね。記憶では神社から見て左に曲がってしばらく歩きます。しかし・・・当時とは車の交通量が違います。道路もなんだか広くなった気がします。歩いていくとここらあたりの風景は変わっていなかった記憶があります。さらに左に曲がって、少し先をまた左に曲がります・・・町名を見ると「北金沢町」とあります。うん? 僕の記憶では北金沢ではなく山田町だったはずです。
これが不思議なんですよ。当時、旅行から帰って父親(数年前に亡くなりました)に聞くと「山田町なんて住んでいないよ。町名は北金沢町だったよ」なんてしらっとした顔で言ったんですよ。じゃなんで僕は山田町なんてはっきりとした町名を記憶していたのか? 当時の記憶では住んでいた山田町の隣町が千刈:せんがりという町だった・・・のですが、これは今でもあるんですよ。センガリって変わった町名でしょ? これは存在しているんですよ。山田町ってのは青森市内にはないのですよ。うーん不思議です。
昔住んでいた家の土地には新しくなった家が建っていました。昔は四方を塀に囲まれた広い土地に建った木造の家だった記憶があります。塀の中には広い空き地があって、土管が2つぐらい置かれていた記憶があります。家の裏には大家だかなんだかの大きな家があって、大きな木がいくつも植えられていたのを覚えています。
しかし、この変わりようは何でしょう? この時期には写真のようにまだ雪がたくさん残っていて、土管が捨てられていた庭だと記憶していたところには雪が積もっていました・・・が、建て替えられた家が大きいのかその広かったはずの庭は僕の記憶にあるような広いものではなかったのですね。写真では広いように見えますがもっと広かったんだけどなあ。子供のころだから背も小さいし、みな大きく見えたんでしょうね。
5.
更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母 夢にもたどるは 故郷の家路
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窓うつ嵐に 夢もやぶれ 遥けき彼方にこころ迷う
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僕が若いころに住んでいた上落合の隣町に中井という町があって、そこに林芙美子記念館なるものがありました。今でも同じ場所にあるようです。当時は興味がなくて一度も行ったことがなかったのです。聞けば林芙美子が住んでいた家だったと言います。
彼女の「放浪記」を読むと林は一生を故郷を探す旅をしていたようです。
放浪記は、冒頭「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」という書き出しで始まります。放浪記は三部構成となっており、それぞれがばらばらに書かれていて、さらにそれぞれは単独で刊行されているようです。すべてが林の生まれながらの孤独感を表しているようです。この僕も、幸い家は貧乏ではなかったのですが、“引越し回数が多い”という同じような境遇で育ってきたから林の放浪癖というか移ろいやすい性格というのが理解できます。
放浪記が当たって印税が入ると彼女の生活は裕福になるのです。結婚もしましたが、夫を捨てて別な男性を追いかけてフランスに渡ったりするのです。当時の文壇からはそういった性格が災いしてか嫌われてしまうのです。裕福になり、名声を得ても、人は本当に幸せというか満足できるところまでに到達できないのですね。
6.
また脱線してしまった。僕の24歳の旅です。
幻の山田町をうろついてから母親と買い物をした線路脇の市場に向います。それにしても人がいません。平日なのだから仕方がないのです。僕はまだ雪が残った道をすべって転びそうになりながら歩きました。市場に向かう道は記憶にあった通りでした。子供のころのことを思い出してちょっと泣けました。
途中、鶴田外科という病院があります。これは昔のまま残っていました。この病院の娘さんと僕は同級生でした。なかなかきれいな子で当時は好きだったかもしれません。