後漢書東夷伝 倭条が完成した時期は、魏志倭人伝の完成後からおよそ130~140年後であると考えられ、倭条に関していえば、魏志倭人伝の記録をベースに、先史である『史記』の情報を盛り込んだり、後漢時代の情報を付け加える形で書かれています。

 また、照合を重ね、誤りを認めた箇所については適宜修正をし、正確に記録しようとしています。

 文章の構成等につきましては、編者の癖が出ますので、陳寿と范曄とでは表現法が違っていますが、概ね倭人伝と同義の記述に終始します。

 

 さて、この二書なのですが、後漢書東夷伝に付いては、条文全体の記録の順番や内容などから、魏志倭人伝を参考に加筆添削したことはほぼ間違いないとされています。

 ただし、後漢の遣使がのちに倭に訪れなければ知り得ることができなかったような細かな情報も見られることから、実際に邪馬臺国に訪れたとも考えられます。

 この件に関しましては、当時の両国間の世情を強く表しているものと推測ができます。

 

 范曄が亡くなった445年までに完成された後漢書東夷伝は、あくまで後漢時代の25年~220年頃までの出来事を記したものです。

 陳寿編纂による魏志倭人伝の完成が284年~291年であることから、291年~445年頃の倭国の様子が殆どわからず、この間を「空白の4世紀」と呼んでいます。

 丁度この間の中国は、五胡十六国時代に突入したために、そもそも倭がどの国と交流を持っていたのかすらわかりません。

 ただし、日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、強化統一されていった時代であったと考えられています。

 

 そういった時代背景の中で、我が国の歴史の詳細を知り得る手掛かりとなる主材料が、考古学調査からの検証、及び「記紀」の解読なのです。

 「記紀」に関しましては、『古事記』と『日本書紀』の考察方について にもご紹介させていただきました通り、万世一系からなる天皇の血脈、並びに日本という国家の正統性を中心に描かれておりますから、実際には改竄されたり、隠されている歴史事実も非常に多く、真の解読には多大な時間を要します。

 

 このような事情も踏まえて、まずは勝手な想像の部類から講釈を垂れるのではなく、地道に他国の歴史書等に書かれている内容を読み解いたり、考古学物証と照合・検証を行いながら、歴史を腑眼視することで、隠れている日本の古代史のディテールが少しずつ形成されるものと考えます。

 ただの論説考のみを信じるのは危険行為であり、下手な先入観による間違った知識を持ってしまうことがかえって邪魔になってしまいます。

 中国の正史に書かれている内容を素直に読み解けば、邪馬臺国、しいては我が国の起源がしっかりと隠れているのです。

 

 いろいろと長文になってしまいましたが、

 東夷伝と倭人伝とを比較して、邪馬臺国の所在の究明に繋がる情報を記しておきます。

 

----------------------------------------------------------------------------------------

 

 ※注:これより徳島説にて解説・仮説を展開していきます。

 

 (後)…後漢書東夷伝 (魏)…魏志倭人伝

 

 魏志倭人伝では、倭に訪れてより方角を見誤っているとされています。

 これは魏使が夏に来たことを示しており、また、日の出の位置から方角を定めていたと考えられます。いわゆる東南に傾く修正方向45℃です。

 このことにより後世にまで日本の地図は右斜め45℃に傾いた地形として認識されるようになってしまいます。

 

 ◆魏使のイメージする倭の地理感

 

 

 これをそのまま継承して記された感がある項が、

 

 (後):去其西北界拘邪韓國七千餘里その西北界の拘邪韓国から七千余里。

 (後):倭國之極南界也倭国の極南界なり

 (後):自女王國東度海千餘里至拘奴國女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る

 

 ただし、狗奴國に関しては方向を「南」から「東」に修正しています。

 地図を見ていただけるとお分かりになると思いますが、

 

 

 修正方向を加味した魏志倭人伝の時の「南」には、現在の和歌山県と奈良県が、後漢書東夷伝による修正を加えた「東」には大阪府と奈良県が該当し、共に共通するのが奈良県となっています。

 これにより、奈良県が狗奴國であった可能性が最も高いとする理由です。

 

 次に、邪馬臺国までの距離

 

 (魏):自郡至女王國萬二千餘里郡より女王国に至るには一万二千余里である

 (後):樂浪郡徼去其國萬二千里楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里

 

 ◆12,000里=約924km

 

 

 (後):去其西北界拘邪韓國七千餘里その西北界の拘邪韓国から七千余里

 

 ◆7,000里=約539km

 

 

 上記に示す場所が共に同じ場所でなければなりませんが、共通する場所は、九州でも畿内でもなく徳島県のみです。

 

 魏志倭人伝から変更された情報

 

 ◆追加

 

 (後):國多女子国に女子が多く

 
 ※ 男性よりも女性が明らかに多かったので追加

 

 (後):建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 

 (後):建武中元二年(57年)、倭奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。

安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。 

 

 ※ 57年、倭国の極南界にある倭奴国が朝賀し、光武帝より印綬を賜る

 ※ 107年、倭国王帥升等が朝見し奴隷160人を献上

 

 (後):會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

 

 (後):会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。

 
 ※ 徐福は数千人の少年少女を連れて澶洲に留まり、代々に相伝し、数万家を有した
 ※ 澶洲の人は時に会稽に至り交易する

 

 ◆追加・削除及び変更

 

 (魏):其地無牛馬虎豹羊鵲その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない

 (後):無牛馬虎豹羊鵲(雞)牛、馬、虎、豹、羊、鵲(鶏)はいない

 

 ※ 「鵲」(カササギ)が「鶏」(ニワトリ)に変更

 

 (魏):兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄、あるいは骨の鏃

 (後):其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨為鏃そこの兵器には矛、楯、木弓、竹矢、あるいは骨の鏃がある

 

 ※ 「鉄」が削除

 

 (魏):男子無大小皆黥面文身男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青を施している

 (後):男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差男子は皆、黥面文身、その文様の左右大小の別で尊卑の差がある

 

 ※ 刺青の文様の左右大小の別で尊卑の差がある旨追加

 

 (魏):住七八十年、倭國亂七、八十年で中断し、倭国は擾乱

 (後):桓霊間倭國大亂桓帝と霊帝の間(146-189年)、倭国は大乱

 

 ※ 倭国大乱の時期に146-189年の指定がある

 

 (後):【案:今名邪摩(惟)堆、音之訛也。】⇒今の国名は照合すると、邪馬惟(い)、堆(たい)は音の訛りである。

 

 ※ 邪馬「壹」國を邪馬「臺」國に修正

 

 まとめ考察

 

 邪馬臺国までの方角や距離に関しては疑いようの事実であり、普通に解釈すれば、四国の徳島県であることを示しています。

 

 習俗などに関して、魏志倭人伝の内容と大きな違いはありませんが、海人族の特徴を示す男子は皆、黥面文身(刺青)である説明や、気候が温暖であること、真珠・青玉、丹が産出することなど、その内容からは、畿内域それも奈良県などとは大きくかけ離れたものとなっています。

 また、海を東へ渡った先に倭種が居て、そこが女王に属さない狗奴國であったこと。

 この情報から我が国の地理地形で該当する場所がすでに九州→四国四国→畿内しかないことも明らかなはずです。

 徳島説に置き換えれば、畿内域に狗奴國が存在したことを示しています。

 

 更に後漢時代に倭国の極南界にあるという倭奴國から光武帝に朝見に訪れ印綬を賜ったとされており、これが「漢委奴國王」印であることはいうまでもありません。

 しかし、後漢書東夷伝にも書かれている通り、倭奴國は倭国の「極南」にあるため、朝鮮半島を渡海してすぐに位置する福岡県博多湾周辺にあったとされる国とは記述内容が全く合わないのです。

 また、金印自体が意味する冊封(いわゆる宗主国と朝貢国の関係)にも適合しないため、後漢書に書かれている当時の極南とは「四国」を指していることがわかります。

 

 また、その50年後、後漢の第6代皇帝に安帝が即位し、倭国王帥升等が160人の生口を献上に訪れたとされる記事ではハッキリと「倭国王」と書かれています。

 しかし、146年~189年に倭国は大乱し、互いに争ったとされ、その間君主がいなかったとされており、帥升等のあとには王の居ない時代があったとも記録されています。

 

 現在発見調査されている主要な弥生遺跡などの殆どが、古くは縄文時代、或いは弥生時代前期から古墳時代、更には奈良時代以降にかけての連続的痕跡を残すものや、弥生時代中期までに終焉を迎えたとされるものばかりです。

 後漢書東夷伝に記される、倭国が長期に渡り「大乱」状態あったのであれば、それに該当する時期の大戦の爪痕や集落の衰退及び消滅、「大乱」を境に急激に隆盛したなど、遺跡の周辺に大きな痕跡が残っているはずです。

 現在のところ高知県南国市にある田村遺跡群のみが、いわゆる「倭国大乱」の時期を境に、急速な衰退が確認されているのです。

 これは高知県の大国と、いずれかの国とが争った結果、高知県側の国が致命的な痛手を負ったと考えるのが自然ではないでしょうか。

 

 

 後に邪馬臺国の卑彌呼が共立されたことで、争いは沈静化して行き、暦年王の無かった倭国に今度は女王として君臨し、国家形成の礎を築いていったのです。

 この戦いは、様々な仮説を立てることができそうですが、邪馬臺国徳島説から最も最初に考えやすいのが、当時までに連合が成立していた国々(徳島・香川・愛媛)と、連合が成立していなかった国側(高知)との争いだったのかも知れません。

 このような仮説を挙げる理由の一つに、高知県は同じ四国でありながら、青銅器の文化圏に大きな違いがあるからです。

 

 

 この図は、青銅器の分布図なのですが、四国で高知県のみ、北部九州と深い繋がりを示しており、銅矛・銅剣・銅戈の文化圏といえるのですが、他の3県は更に平形銅剣や銅鐸など別な青銅祭具がたくさん出土することから、高知県側とは青銅器の輸入ルートが違うことや、共有する文化圏が異なることを示しています。

 即ち、魏志倭人伝に書かれている邪馬臺国の国々の交易を監督している「大倭」の操作する物流ルートとは別な異なるルートを確保していた(もしくは銅矛・銅剣・銅戈のみの交易だけ許された)ことを意味し、また同時にその国が当時、邪馬臺国連合側には属していなかった(もしくは属していたが不満を抱き争った)ことを意味しているとも考えられるのです。

 もう一つ踏み込んでいえば、この争いが当時の邪馬臺国連合側と、北部九州を含む銅矛・銅剣・銅戈文化圏側との大きな争いであったと考えられるのです。

 その原因とされるのが、委奴國王が光武帝から賜ったとされる金印「漢委奴國王」印の出土場所が示しているのではないかと私は睨んでいます。

 

 次に徐福についてですが、「史記」より引用し、「その昔、秦の始皇帝の時代の方士徐福は、数千人の少年少女を連れて澶洲にあるとされる蓬萊山の神仙を探し求めたが出会えず、この島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。」などと書かれており、徐福の末裔が我が国で繁栄したとする記載が確認できます。

 

 北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。

 朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。(wikipedia 徐福より抜粋)

 

 徐福は長らく伝説上の人物とされていましたが、

 

 1982年、中国は全国の地名標準化のための一斉調査を展開した。江蘇省カン楡県担当の地名調査員が現地の人々の話を聞きに訪れ、歴史資料を閲覧した時、金山郷徐阜村は原名「徐福村」と称していたことを発見した。地名調査の責任者は、清の乾隆年間の村の記録『張氏宗譜』『王氏家譜』『壹経堂・韋氏支譜』を閲覧調査し、徐阜村が「徐福村」としてどのような変遷を経てきたのかを発見して、調査報告書を提出した。この調査報告書は、多方面にわたる調査の結果、「徐福村」は徐福の故郷であると基本的に認定された。(張良群著『徐福故里掲謎』より抜粋)

 

 ◆徐福村

 

 

 これにより現在では、徐福が実在した人物であるとされています。

 近年は韓国や日本においても徐福の研究が進められています。

 各書における徐福関連の記述内容については、正統な歴史学者からは認められておりません。

 当然のことながら、「史記」にある徐福についての内容をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、逆に書かれた内容が全て嘘とする根拠や、それを実証する証拠がないのも事実です。

 もし、徐福達一行が本当に日本に到達し、繁栄していたとするならば、当時の日本の文化水準からすれば、革新的な技術を持った渡来系集団であったことは間違いないでしょう。

 

 また、「そこの人民は時折会稽に至り交易するが、東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいるが、絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」とも記録があり、澶洲の人、即ち倭人が会稽に赴き、交易していたことが書かれています。

 邪馬臺国の習俗が呉・越の文化に似通っていることや、我が国の水耕稲作の伝来、呉の国の交易品(銅鏡)、養蚕の伝来や呉人の渡来など、朝鮮半島経由からではなく、大陸から直接伝来した可能性も大いに考えられます。

 今後の調査等で、「魏」のみならず「呉」方面からも、我が国との繋がりや痕跡が見出せるようになれば、空白の4世紀の謎が解明できるかも知れません。