『後漢書』倭人伝←こちらよりお借りしました

 

 これまでに書きました「魏志倭人伝 考察シリーズ」を踏まえまして、同様の情報はスルーし、新たな(違った)情報をピックアップして考察していきたいと思います。

 …邪馬臺國の所在に繋がる情報 ◆…重要な情報

 

「後漢書」 巻85 東夷列伝 倭条

 

 倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。

 

 倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。

 

 邪馬臺國

 ★楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里 

 西北界の拘邪韓国から七千余里

 ◆会稽郡東冶の東

 

 土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績為縑布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣温煗、冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲(雞)。其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。

 

 風土は粟、稲、紵麻(カラムシ)の栽培に適し、養蚕し、縑布を織ることを知っている。白珠、青玉を産出する。その山には丹砂がある。気候は温暖で、冬や夏も生野菜を食べる。牛、馬、虎、豹、羊、鵲(鶏)はいない。そこの兵器には矛、楯、木弓、竹矢、あるいは骨の鏃がある。男子は皆、黥面文身、その文様の左右大小の別で尊卑の差がある。

 

 其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之;並以丹朱坋身、如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。飲食以手、而用籩豆。

 

 そこの男の衣は皆、幅広で互いを結束して連ねる。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のようにして頭を突き出して着る(貫頭衣)。並びに、丹砂の朱粉を体に塗る、中国での白粉の用法のようである。城柵、屋室あり。父母兄弟は居が異なるが、会同では男女の別はない。飲食は手を使い、御膳を用いる。

 

 俗皆徒跣、以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚眾。國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞為樂。灼骨以卜、用決吉凶。行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以為持 衰不謹、便共殺之。

 

 習俗は皆、裸足で歩き、蹲踞(そんきょ)で恭敬を示す。人々の性質は酒を嗜む。長寿が多く、百余歳に届く者も甚だ多勢いる。国に女子が多く、大人は皆、四~五人の妻がおり、その余は二~三人である。女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みをせず、争訟は少ない。法を犯した者は、その妻子を没収し、重罪はその家系一門を誅滅する。その喪は十余日で停止する。家人は哭泣し、酒食を摂らず、而して等類は歌舞を楽しむ。灼骨で卜占し、吉凶を決するのに用いる。海を渡って行き来するときは、一人に櫛や沐浴を使わせず、肉食をさせず、婦人を近づかせない、名づけて持衰という。もし道に在って(海運で)吉利を得れば財物を以て支払う。もし病疾の災害に遭遇すれば、持衰が慎まなかったことして、すなわち共にこれを殺す。

 

 蹲踞(そんきょ)で恭敬を示す

 国に女子が多く

 

 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 

 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。

 安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。

 

 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した

 倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る

 安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見を請い願う

 

 桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。

 

 桓帝と霊帝の間(146-189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。

 

 桓帝と霊帝の間(146-189年)、倭国は大乱

 

 自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。

 

 女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三~四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。

 

 女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る

 いずれも倭種とはいえども女王には属していない

 使訳の伝える所はこれに尽きる

 

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

 

 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。

 

 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている

 夷洲および澶洲がある

 徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった

 代々に相伝し、数万家を有した

 人民は時に会稽に至り交易する

 会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる