「今以絳地交龍錦五匹①、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。

 ①臣松之以為地應為綈、漢文帝著皂衣謂之弋綈是也。此字不體、非魏朝之失、則傳寫者誤也。

 

 「今、絳地の交龍錦を五匹①、絳地の縐、粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨と絳五十匹、紺と青五十匹、これらを汝の貢献の値として贈答する。

 注記① 臣松之は、地は綈に対応するとし、漢の文帝は黒い衣を着るが、これを弋綈と言うのである。この字は字典に則らず、魏朝の過失にあらず、書写の者の誤記である 。

 筆者注記 絳は深紅の意味で、絳地は深紅を基調(深紅地)となるが、本文注記に記載があるように、現代漢語でも、地「di=ディ」と綈「ti=ティ」と同一の音調であり、上古音韻では同音だった可能性もある。従って、地は綈(つむぎ=紬)の誤記とされる。

 

 「絳地」…注釈(綈=紬) 赤い紬

 「交龍錦」…龍が交わる絵柄の錦織

 「」…ちりめん

 「」…アワ

 「罽」…毛織の絨毯 中国語訳:毛織地⇒ 「氈」 獣毛を縮絨 (しゅくじゅう) した布

 「蒨」…紅色、茜色

 「絳」…注釈:深紅の意味

 「紺青」…深蓝色(ダークブルー)藍色、ブルーブラック、群青色

 

 「又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」

 

 「また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して難升米、牛利に付託するので、帰還したら目録を受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである

 

 「」…(勾)、文、句

 「文」…文字、入れ墨をする、模様

 「錦」…にしき、あでやかな、色あざやかな、彩色文様をほどこした絹織物 

 「悉」…①ことごとく、全部、完全、一切 ②尽くす、③知る

 「鄭重」…(気持ちが)誠実である、真心がこもっている

 

 「正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。

 

 「正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。

 

 「拜假」 ※別考➊

 「并」…併せる、合併する、一つにする

 「齎」…①人に物を与える、もたらす ②心に抱く

 「帛」…(総称的に)絹織物

 「采物」…採取したもの

 「因」…①に基づいて、…に応じて、…に従って ②…のために、…だから、…によって

 「上表」…君主に奉る文書

 「謝」…感謝する

 

 ※別 「拜假」…釈明して礼拝するになって臨時の官級と爵位を授けます。(対応する訳が無いので、百度で無理やり翻訳)

 「釈明」 自分の立場や考えを説明して、誤解や非難を解き、理解を求めること。

 

 つまり、「(礼拝する+理解を求める)儀式的なもの?+官級と爵位を授ける」の意味か。

 建中校尉の梯雋からすれば、倭王は目上の者になるので、謙譲の意味での「拝」が付くとされると解する諸氏もおられます。

 この部分の翻訳は、各サイトでそれぞれ違いますが、ニュアンス的には通じるので、拝受、印綬を仮す(委ねる)、拝假(原文まま)等と訳しているようです。

 

 要するに、「拜假」は、魏皇帝が倭王の爵位を認める証として金印を拝受せしめるということと推測します。

 

 「其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

 

 「その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。

 

 「倭錦 ※別

 「絳青」 ※別

 「縑」…細かく織り込んだ絹織物

 「緜」…真綿

 「木弣」 ※別

 「壹 ※別

 

 ※別 「倭錦」(いきん)

 ①日本で織った錦。平安時代以前から織られ、経(たて)錦・緯(ぬき)錦がある。中世、唐錦(からにしき)に対していう。

 ②近世、神社などのために織られた紋織物を、一般の錦と区別していう。

 上に訳したのはいわゆる、倭錦(やまとにしき)ですが、倭錦(いきん)がどのようなものであったのかは実際のところよくわかっていません。

 

 錦色(きんしょく):種々の色糸を用いて華麗な模様を織り出した織物の総称。色や模様の美しいもの。

 

 ◆錦鯉

 

 

 ◆倭錦(やまとにしき)

 

 

 おそらく暖色系のいろんな色の混ざった鮮やかな織物であったと想像します。

 

 ※別 「絳青」…紺色、もしくは深紅と青(紺)

 「絳」のみですと、「大红色=濃い赤」という意味になり、「濃い」という意味を内包します。

 「絳青」ですので、濃い青、濃紺色、つまり、「絳青縑」(こうせいけん)は、濃紺色の細かく織り込んだ絹織物という意味です。

 

 これは阿波徳島名産の藍染のことではないでしょうかはてなマーク

 

 ◆藍染の織物

 

 

 一般的には、奈良時代に中国から朝鮮半島を経て伝来。最初に栽培したのは出雲族で、種類はタデ藍だったといわれています。

 日本において現存する最も古い藍染めが、752 年の大仏の開眼供養会で藍染めの絹の紐「開眼の縷」で使用されたものであり、これが正倉院に保存されています。

 奈良時代にはすでに生産されていますので、更に古い時代まで遡れるといわれています。

 古墳時代にも古事記、風土記といった文書に、藍に関するものではないかと類推される記述が指摘されています。

 現在藍染めに広く使われている蓼藍(タデアイ)のルーツは、遠く弥生時代、中国南部、もしくはベトナムあたりから、米やその栽培技法とともに伝来した可能性があるとされているからです。

 ちなみに世界では、紀元前3000年前頃のインダス文明の遺跡から、藍染めの染織槽跡を発見されています。

 徳島県における最古の資料『見性寺記録』より、鎌倉時代の1247年、「見性寺」を開いた翠桂和尚が、美馬郡岩倉で藍を栽培して衣を染めたとあります。

 

 ※別 「」 本来は、𤝔と記しているようですが、これだと何だか一向に分かりません。

 

 玉篇(ぎょくへん、ごくへん)は、中国、南北朝時代、梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典。字書としては『説文解字』・『字林』(現存せず)の次に古い。原本系玉篇は部分的にしか現存しない。

 543年に顧野王によって編纂された元々の『玉篇』のことを、とくに原本玉篇と呼ぶ。(wikipedia 玉篇より抜粋)

 

 寛政4年の日本語版「玉篇」の解説本「四声玉篇和訓大成」で検索いたします。

 

 

 これは犬部で、「ブ」と読み、”ケモノ”の意味のようです。

 ここの分節も、「帛布、丹木、𤝔、短弓、矢」とされる方、「帛布、丹、木、短弓、矢」と解する諸氏もおられるようですが、これはおそらく、「帛布、丹、𤝔、短弓、矢」となり、つまり、木獣であると推測します。

 

 三国志演義に、猛獣や毒蛇を使って趙雲や魏延を破り諸葛亮の軍に善戦した南蛮の木鹿大王(ぼくろくだいおう)ですが、諸葛亮が開発した口や鼻から炎や煙を出す巨大な木獣兵器により猛獣たちが混乱し、その隙を突いた敵軍の攻撃の中で討ち取られたとあります。

 

 ですからここの訳は、「絹布、朱、木獣、短弓、矢」で、丹以降は兵器の紹介となっています。

 倭の献上品ですので、山車、だんじりのようなものであったと推測いたします。

 

 ※別 「」…いつに、すべて、みな。(例外のない意)

 つまりこれは「一」のことですが、私の調べたところでは意味合い的にどこにも見当たらなかったものの、他のサイト等々では総じて副詞であるとのこと。

 「掖邪狗等 - 壹 - 拜 - 率善中郎將 - 印綬。」と分けることができますので、意味的には、印綬の贈呈の仕方で、今までのような後日贈るための仮授させる方法ではなく、掖邪狗等が来朝したその時に直接印綬を一同に拝受したのではと推測します。

 

 「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

 

 「その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して仮授せしめた。

 

 「幢」…昔、儀式または軍隊の指揮などに用いた旗の一種。彩色した布で作り、竿の先につけたり、柱に懸けたりした。はたほこ。

 

 

 「其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。

 

 「その八年(247年)、(帯方郡)太守の王頎が(洛陽の)官府に到着した。

倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。

 

 「與」…①与える、贈る、施す ②(人と)交わる、くみする ③…とかかわりがある

 」…本来の、もとからの

 「塞」…要塞、敵の進攻を防ぐために重要地点に作るとりでや防備施設

 「檄」…檄、触れ文、お触れ

 「喻」…諭す、説明する

 

 ◆考察

 畿内説等で、「卑彌弓呼-素不和」の分節を、「卑彌弓呼素-不和」とされておられる方も居ます。

 狗奴國の男王の名前の読みも、ヒミクコ、ヒミミコ、ヒミクコソ、ヒミミコソ、ヒヤミコ等々、諸説あり、現在のところこれをどう読むか断定ができません。

 また、「遣倭載斯、烏越等」⇒「倭の遣いの載斯、烏越等」の解釈も、一人の人物だとすれば、「遣倭 - 載斯烏越 - 等」⇒「倭の遣いの載斯烏越等」とも読めます。

 

 「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

 

 「卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、皇帝の居場所に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。

 

 「」…墓、塚、墳墓

 「徑」…直径

 「歩(ぶ) ※別

 「奴婢」…下男や下女、男女の奴隷

 「宗」…先祖、一族、同族

 「臺」…展望に便利なよう高く平らに造った建造物皇帝の居場所

 「孔」…穴

 「青大句珠」…青くて大きい勾玉

 「異文」…普通とは違う文面

 「雜」…①種類が多い、種々雑多である、入り交じっている ②混じる、混ざる

 

 ※別

 (尺貫法)は、尺貫法の長さと面積の単位である。長さとしての1歩は本来は6尺で、面積としての1歩はその平方である。

 長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺で、約 1.35 m(面積は 1.822 m2)だった。

 実際の1歩の長さは時代によって異なる。秦・では6尺と定義された。当時の尺は約23cmであり、1歩は約1.38m(面積は 1.9 m2)となった。その後、尺の長さが伸びるのに比例し従い歩の長さも伸び、隋代には約 1.77 m(面積は 3.14 m2)となった。

 唐代には5尺、つまり約 1.56 m(面積は 2.42 m2)となった。(wikipedia 歩 (尺貫法)より抜粋)

 

 つまり卑彌呼の塚は直径百歩余りですから、140m前後であると推測できます。

 

 私説

 「青大句珠」⇒青くて大きい勾玉に関しましては、魏志倭人伝 考察 III ⑦ で紹介しました藍銅鉱(アズライト)製の勾玉であったと推測します。

 

 ◆アズライト製の勾玉

 

 

 アズライトの象徴は、霊性、浄化、洞察力の意味があるとされ、鉱石辞典やパワーストーンのサイト等の説明でも、

 アズライトは非常に霊性に富んだパワーストーンで、喋る植物がサボテンなら喋る石はアズライトとも言えるほど予言やサイキックなパワーも持っています。より深い洞察力で物事を見抜き、未知なる知恵によって根本的な視野から問題を解決するよう導いてくれます。

等と紹介されています。

 

 ・徳島県で勾玉が出土された遺跡稲持遺跡矢野遺跡黒谷川郡頭遺跡井出上遺跡など

 

 中でも稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代の玉作遺跡として代表的です。

 井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末~古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっています。

 出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっています。

 

 ◆私説

 「異文雜錦」⇒異文が入り混じっている錦ということになり、この時代の倭に魏が読めない何らかの文字があったことを裏付けています。

 これが現代における日本語の類似性が指摘されるヘブライ語なのか、大陸や南方諸島より先んじて伝わった古代文字等であったのかは謎なのですが、これまでの考察結果により導き出された比定地である徳島県(阿波)に残る古代文字である「阿波文字」ではないかと推測されます。

 

 阿波文字(あわもじ)は、神代文字の一種。

 日本語の五十音に対応しているが、「ん」に相当する文字は存在せず(「ん」が出来たのは室町時代以降である)、また歴史的仮名遣いであるため濁音や半濁音を表す文字も存在しない。

 ほかに国之常立神を表す為の文字や、十干などを表す文字も存在する。

書風は阿比留草文字や豊国文字に似ており、阿波文字と阿比留草文字の混ぜ書きが用いられる場合もある。 

 徳島県名東郡佐那河内村の大宮八幡宮に伝わった文字とされる。大宮八幡宮の神主である藤原充長が1779年(安永8年)に著した『神字書』(かなふみ)に阿波文字が掲載される。また同じ阿波国の隠士である宮谷理然(みやたにりねん)が、同年に著した『かむことのよそあり』に収録される「大祓詞」(おおはらえのことば)では、阿波文字と阿比留草文字の混ぜ書きが用いられている。

 三井寺住職の敬光が1793年(寛政5年)に著した『和字考』に見え、また 平田篤胤が1819年(文政2年)に著した『神字日文伝』附録疑字篇には「神字五十韻」として採録されている。ただし、平田はこの文字について藤原充長の創作による文字ではないかとしている。

 宮城県気仙沼市の御崎神社に現存する石碑に阿波文字が記されているほか、陸奥国加美郡の意水家から1799年(寛政11年)に伝わったとされる文書にも阿波文字が用いられていることから、江戸時代後期には現在の宮城県の辺りでも阿波文字が用いられた可能性が指摘されている。

 また長野県駒ヶ根市の大御食(おおみけ)神社に伝わる文書『美社神字解』(うるわしのもりしんじかい)では、前述の「大祓詞」と同様に阿波文字と阿比留草文字の混ぜ書きが用いられている。『美社新字解』はヤマトタケルの業績を伝えたもので、村上天皇か円融天皇の時代の作と伝わっている。

 伊勢神宮には神代文字によって記された多数の奉納文があり、その中にも阿波文字を記したものがある(wikipedia 阿波文字より抜粋)

 

 阿波文字に関しましては、後世の平安期以降に作られたとされる文字(ホツマツタヱのヲシテ等)と違い、いわゆる「ん」の文字が存在しません。

 遡ることは難しいのですが、式内社宅宮神社に文化財の神代文字の版木が残っています。

 

 宅宮神社(えのみやじんじゃ)は徳島県徳島市上八万町に鎮座する神社である。

 

 

 ◆祭神 大苫辺尊 大歳神 稚武彦命

 

 ◆神紋 丸に五七桐

 

 ◆歴史 創祀年代不詳である。

 

 『延喜式神名帳』阿波国名方郡の「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」に比定されている(式内社)。式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社である。 

 名方郡12社の1位に挙げられる名社で、貞観16年(874年)に従五位下の神階を得ている。主祭神は家宅・建築の神であるとされる。旧郷社。(wikipedia 宅宮神社より抜粋)

 

 ※宅宮神社につきましてはまた別の機会に詳しく紹介したいと思います。

 

 事稿に続きます。