そこの山には丹(丹砂=水銀)がある

 

 「其山有丹

 

 この四文字、破壊力抜群です。

 

 

 辰砂については、朱丹を身体に塗る項で、少し述べましたが、

 日本では古来「(に)」と呼ばれ、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。

 日本では弥生時代から産出が知られ、古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。古くは吉野川上流や伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などが特産地として知られた。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入された。現在では奈良県、徳島県、大分県、熊本県などで産する。(wikipedia 辰砂より抜粋)

 

 この項においても、相変わらず奈良県や大分県、熊本県等を書き記し、どうしても目にする方に、北部九州説・畿内説を有利にしようとする恣意的表現が見受けられます。

 

 現在では、中央構造線水銀鉱床群の存在が確認されており、水銀が採取できる場所の存在が潜在的に確認ができます。

 

 では魏志倭人伝にある「其山有丹」の場所はどこなのでしょうか?

 

 まず、wikipediaに書かれている場所をそれぞれ正しく調査します。

 日本における辰砂鉱山鉱石のイオウ同位体比分析参照 ()内は辰砂鉱山鉱石イオウ同位体比

 

 三重県多気郡多気町(幕末時、飯高郡丹生村は「旧高旧領取調帳」の記載によると和歌山藩領)

 丹生鉱山(-8.88)

 縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見されている。さらに、40か所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘・加工が行われていた。

 7世紀末、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)9月28日の条であり、常陸国(茨木県)・備前国(岡山及び兵庫県)・伊予国(愛媛県)・日向国(宮崎県)、そして伊勢から朱砂(辰砂)が献上されている。とくに、伊勢国の場合は、朱砂とともに雄黄(石黄)が献上されている。雄黄は有毒なヒ素鉱物ではあるが、当時は貴重な薬品として流通していた。丹生鉱山の大きな特徴として副産物の石黄の産出が多いことがあり、現在のところ、このとき献上された伊勢産の水銀は丹生産の物であったと考えられている。713年(和銅6年)には、伊勢国のみから朱砂が献上されている。(wikipedia 丹生鉱山より抜粋)

 

 他の文献や朝廷への献上品からも最も多く採取されたのは恐らく奈良時代以降であったと思われます。

 ようするに縄文時代より朱が採取できましたが、実は弥生時代末期~古墳時代出現期及び前期において、この地の朱が未だ確認されておりません

 

 奈良県(奈良県宇陀郡菟田野町)

 大和水銀鉱山(-3.13)、神生鉱山(-2.96)など

 室生火山群の火山岩が変質した白土の節理に層状に自然水銀や水銀の原料ともなる辰砂(水銀朱)が含まれ、その鉱床が宇陀山地(宇陀市南部)にも達しており、露頭している場所を中心に古来から採掘が行われていた。

 『万葉集』には宇陀の辰砂を詠んだものがある。

 

 (巻7-1376)

 「大和の 宇陀の真赤土(まはに)の さ丹つかば そこもか人の わをことなさむ」

 

 内容は「宇陀の真赤土で紅化粧をすれば、世間の人は私をなんと噂するでしょうか。それであの人が私を振り向いてくれれば」というもの。真赤土や丹は辰砂のことであり、当時の貴族らの化粧品として使われていたことを伺わせる。

 明治に入ると積極的に探鉱が行われるようになり、1909年(明治42年)に岡山県出身の景山和民が今の宇陀市菟田野大沢で有望な露頭(鉱脈)を発見し、小規模ながら製錬所が建てられ、水銀の生産が始まった。小規模であるものの、当時の日本で数少ない水銀鉱山であった。大規模に採掘されるようになったのは昭和初期云々…。(wikipedia 大和水銀鉱山より抜粋)

 

 その周辺でもやれ採れた採れたと他所のweb等に書いてはあるものの、全く魏志倭人伝の時代と重なる記述が見つかりません。

 万葉集自体は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集ですが、時代が全く合わず、専ら朱が採れたとされる歴史が浅いとしか言えません。

 第一、弥生時代に採取できたという遺構や記述物はどこにも一切ありません

 現時点における奈良県の朱採取についての情報では全く価値を見出せません。

 

 大分県

 鶴望鉱山(-6.30)、大分水銀鉱山(-3.46)

 『続日本紀』文武2年9月28日条(698年)に、伊勢国朱沙、常陸国・備前・伊予・日向四国朱沙と並んで、豊後国真朱とあるのが最古の記録という。

 『豊後国風土記』(天平初期頃の成立?)には、海部郡丹生郷の項に「昔、時の人は此山の沙を取りて朱沙(朱砂)に該う、因りて丹生の郷という」とあり、丹生郷は現在の大分市東部から臼杵市にかけての地域とされている。この臼杵市周辺の一帯は、中央構造線から形成される北九州浅熱水性金属鉱床区にあたり、丹生、戸沢、鶴望など鉱染鉱床鉱山(水銀)のあるところで、「魏志倭人伝」等の記述と一致する。

 

 という記事を確認。

 残念ながら、この地における朱が使用されたものが、弥生時代末期~古墳時代初期の遺物などから全く発見されていません。

 

 熊本県(球磨郡五木村)

 馬石、子鶴鉱山

 過去採取された文献記録見当たらず。

 地図でいうと、熊本市より南に約40kmに位置します。

 

 

 この地の情報自体が皆無であり、辰砂採掘における弥生遺跡も全く発見されていないことから、可能性は非常に薄いと言わざるを得ません。

 

 ちなみに他の水銀鉱山とイオウ同位対比

 和歌山県 和佐鉱山(-8.24)、岡山県 和気鉱山(-6.20)、愛媛県 下川明間鉱山(-5.80)、日吉鉱山(-5.30)、高知県 穴内鉱山(-2.42)、長崎県 波佐見鉱山(1.87)

 他にも愛知以北~北海道まで存在を確認できますが、この件では割愛します。←wikipediaにこの地も書いて下さい。むしろこっちの鉱山の数の方が圧倒的に多い。

 

 要するにwikipediaに書かれている辰砂の項にある北部九州の県及び奈良県が、魏志倭人伝に繋がるという根拠が全く無いのです。

 

 では、徳島県はというと、

 

 徳島県

 由岐水銀鉱山(-3.96)、水井鉱山(-3.63)

 wikipediaの丹生鉱山の記事の中に、

 徳島県阿南市水井町には若杉山遺跡が存在している。同遺跡からは石臼・辰砂原石が発見されており、古墳時代の水銀採取遺跡として知られている。この付近には江戸時代末期に発見された水井鉱山←この表現も誤解を招く恐れあり(由岐水銀鉱山)があり、近隣の那賀郡那賀町仁宇には、丹生神社を合祀した八幡神社が存在する。また、この付近一帯は「丹生谷」と呼ばれている。

 

 若杉山遺跡(弥生時代終末~古墳時代初頭にかけての辰砂採掘遺跡)

 

 

 那賀川を遡り、鷲敷町との境には四国霊場二十一番札所の太竜寺がある。この太竜寺の北側の「若杉山」の標高140~170mの山腹斜面に遺跡が広がる。1950年代には遺跡の存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査で、その実態が明らかとなった。

 石杵(いしきね)・石臼(いしうす)や辰砂(しんしゃ)原石が大量に見つかっている。辰砂は、赤色顔料の「朱」の原料で、石杵や石臼などの石器を用いてこれを朱に加工する工程を若杉山遺跡で行っていたことが分かった。出土土器から弥生時代の終わりから古墳時代の初めまでが朱生産のピークと考えられる。

 全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの水銀朱は古墳時代前期などに古墳の埋葬主体に大量に使用される。若杉山遺跡で産出した水銀朱も各地の古墳築造時に運び出されていったものと想定され、古墳時代の広範囲な流通を知る上でも非常に重要な遺跡である。(徳島県立埋蔵文化財総合センターより転載) 

 重要事実にも関わらず、wikipediaに記載がない、もしくは意図的に削除されている。

 

 事実、卑弥呼の時代(3世紀中頃)に水銀を産出されたと確認されているのはこの若杉山遺跡のみです。


 日本古代朱の研究 市毛勲氏 この記述の中に、

 

 弥生・古墳時代辰砂採掘跡は日本列島で唯一徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡が知られているのみである。

 徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡の発見で、弥生時代後期から古墳時代初めにかけて、本邦産辰砂は少なくとも西日本各地域に搬出されていた状況が推察された。

 これによって『魏志東夷伝』倭人の条記載の「其山有丹」が証明され、さらには卑弥呼が献上した品物の「丹」が本邦産辰砂である点も明らかになった。

 

 とあります。

 

 ◆若杉山遺跡から出土した水銀朱精製用の石器類 (写真 徳島県立博物館)

 

 

 辰砂の精製 徳島県立博物館 考古館長 高島 芳弘氏

 

 徳島市国府町の矢野遺跡においても縄文時代後期から辰砂の精製が行われていたようです。

 弥生時代以降の辰砂の採掘では徳島県阿南市の若杉山遺跡が有名で、弥生時代終末期~古墳時代初頭の一大産地であったと思われます。

 弥生・古墳時代の辰砂を精製するための石臼・石杵は、採掘遺跡、住居跡、古墳から発見されています。

 若杉山遺跡では、石臼は40点以上、石杵は300点以上出土しています。大部分の石臼には石杵によって叩かれてできたくぼみが何カ所かあり、石杵には両端に潰れた跡や小さく欠けた跡がみられます。これらのことから、若杉山遺跡では辰砂の採掘、おおまかな粉砕の作業が中心に行われており、微粉化はあまり行われていなかったのではないかとも考えられてきました。

 しかし、石杵のなかには、大きさによってばらつきはあるものの、潰れた跡や小さく欠けた跡とともにすりぶした痕跡を持つものがある程度あり、石臼にも丸いくぼみをもたずに磨かれた面だけをもつものもあります。すりつぶす作業は主体ではないものの、かなりの割合で行われていたものと思われます。

 また、若杉山遺跡の発掘調査地点だけでなく、周辺地域でも石臼・石杵が発見されていますが、ここからもすりつぶすために使われたと思われる石杵が見つかっています。

 

 ◆名東遺跡徳島県徳島市名東町 水銀朱の精製と銅鐸が埋納された弥生時代の集落

 

 水銀朱の精製工房であることが分かった竪穴住居跡の様子

 

 ◆水銀朱を精製する石器(石杵)の出土の様子

 

 

 ◆水銀朱が残る石杵

 

 

 黒谷川郡頭遺跡・庄遺跡鮎喰遺跡名東遺跡矢野遺跡・石井城ノ内遺跡でも朱の精製が行われていたことを示す遺物が出土している。

 

 今後各地に残る朱の分析によって産地や流通経路も次第にわかって来るものと思われます。

 

 「其山有丹」について、これ以上の有力なものは他に御座いません。

 

 このセクションでの考察結果は、

 

 北部九州説 ×(辰砂を産していない)

 畿内説 ×(辰砂を産していない)

 三重県 △(縄文期より辰砂を産し得たが、弥生末期~古墳初期の遺跡や証拠が無い)

 徳島県 〇(山から辰砂を産する、弥生末期~古墳初期の遺跡や証拠がある)

 

 ※ なお、この件に関しての詳細な情報や新しい情報等があれば、随時追記訂正致します。

 

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男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青

古より、そこの遣使が中国を詣でると皆が大夫を自称

その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる

その風俗は淫乱ではない

男性は皆が頭に何も被らない、木綿を頭に巻いている。衣は横幅があり、互いを結束して連ね、簡単な縫製もない

婦人は髮を曲げて結び、衣は単被に作り、中央に穴を開け、頭を突き出す

水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ

細い紵(木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する

牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない

矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い

倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足

朱丹を身体に塗る

飲食は手で食べる

死ねば、棺はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る

死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が禊をする

持衰(じさい)がいる

真珠や青玉を産出する

Nowそこの山には丹(丹砂=水銀)がある

樹木には、楠木、栃、樟、櫪、橿、桑、楓

竹には、篠、簳、桃支

生姜、橘、椒、茗荷があるが、滋味なることを知らない

行動に移るときには、骨を焼いて卜占で吉凶を占う。令亀の法の如く、熱で生じた亀裂を観て兆を占う

会同での起居振舞に、父子男女の差別がない。人々の性癖は酒を嗜む。高貴な者への表敬を観ると、拍手を以て膝を着いての拝礼にあてている

一年に四季があることを知らないが、春に耕し、秋に収穫をすることを計って年紀としている

そこの人々は長寿で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる

尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている

租賦を収めている

立派な高楼があり、国には市があり、双方の有無とする物を交易し、大倭にこれを監督させている

女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている

伊都国王が使者を洛陽や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し、文書、賜物を女王に詣でて伝送するが、間違いはあり得ない

応答する声は噫(いい)と言い、これで承諾を示す