その風俗は淫乱ではない

 

 「其風俗不淫

 

 これに関しましては、いわゆるモラル・道徳観念なのですが、大陸文化の伝来があったとするならば、孔子の教えである儒教の影響が最も近いのかもしれません。

 少なくとも仏教が伝来したのはこの時代の300年以上も後の話です。

 

 儒教の教えの中に、

 

  利欲に囚われず、すべきことをすること。

  宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していがのちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。

  主君に対して裏表の無い態度を意味する概念。主君に尽くすという真心を「忠義」「忠誠」などという。 (wikipedia 儒教より抜粋)

 

 このような道徳観は儒教に通じるものですが、儒教が伝わる以前から、日本人の基本的性質としてすでにこの時代に備わっていた可能性もあります。

 

つぎに、

 

男性は皆が頭に何も被らない、木綿を頭に巻いている。衣は横幅があり、互いを結束して連ね、簡単な縫製もない

 

 この時代の男性の身なり・服装についての詳細です。

 

 「男子皆露

 

 ・「紒」[音]ケイ、ケツ、ケチ、カイ [訓]ゆう、むすふ、むすぶ

 

 男子は皆、むすんで露わにしている。⇒これは一般的に角髪と推測されています。

 角髪は、縄文時代の土偶などには一切無く、弥生時代以降に誕生した髪型であるとされています。

 

婦人は髮を曲げて結び、衣は単被に作り、中央に穴を開け、頭を突き出す

 

 「婦人被髮屈」⇒女性は髪を被せるように曲げてむすんでいたようです。

 

 「穿其中央、貫頭衣

 

 ・「穿」…[音]セン(呉)(漢) [訓]うがつ はく 穴をあけて通す。うがつ

 

 貫頭衣(かんとうい)は、一般的には中央に穿たれた穴から頭を出して着るごく単純な構成の衣装です。

 

 古墳時代の女性の埴輪(巫女) これだけみるとトンデモヘッドですが、

 

 

 

 

 

 髪型のイメージ的には、いわゆる古墳島田が近いのではと思われます。

 

 衣服については、弥生時代末期ですから、凡そ古墳時代の衣服に近いはずです。

 この時代の倭人は、布を織ることはできるものの、縫製する技術はまだ無いようですので、魏使の目からすれば未発展の国に映ったようです。 

 ただし、吉野ケ里遺跡からは、多数の絹布片と大麻布片が出土し、貝紫や茜で染められた絹布や、縫い合わせた布片も出土しています。

 魏使が訪れた後、間もなくして裁縫技術も急速に発達したのではないでしょうか。

 

 庶民の衣服は素材や構造も簡素だったようですが、位の高い身分の人や祀事を司る巫女などの衣服は、ある程度のカラーバリエーションのある染色がされた衣服を着用していたのではと推測できます。

 

 続きまして、

 

水稲、紵麻の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ

細い紵木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する

 

 「種禾稻、紵麻蠶桑緝績。出細紵、縑綿。

 

 「水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。

 

 水田農耕は、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から伝わっていたとされます。

 弥生時代末期には北海道以外の全土に渡って行われていたことが分かっています。

 

 つぎに、「紵麻」(ちょま)ですが、

 この「紵」は単独では麻の一種である苧麻を指すのか大麻(カラムシ)を指すのかは不分明であり、さらに言えばカラムシは当時においては「蒸す」ことで繊維を引き出せるようになる草木全般を指していたのではないかという説があります。

 

 カラムシ(苧、枲は、南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古くから植物繊維をとるために栽培されたため、文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)。など。(wikipedia カラムシより抜粋)

 

 (たいま)は、アサの花冠、葉を乾燥または樹脂化、液体化させたもの。大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。日本では、12000年前の貝塚から大麻製の縄が出土している。(wikipedia 大麻より抜粋)

 

 どうやら邪馬台国の人々は、麻の種を蒔いて収穫し、紡いでいたようです。

 また、蚕も養殖し、絹織物も紡いでいたと記しています。

 

 養蚕は、日本には紀元前200年くらいに、稲作と同時期にもたらされたと考えられている。195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、養蚕技術の導入が行われた。(wikipedia 養蚕業より抜粋)

 シルクの発祥が中国であることは、古くより知られています。

 

 最後に「綿」⇒「薄絹、綿を産出する。」とあり、

 (かとり)は、織り目を密に、固く織った絹布。

 綿は、一般的に真綿だといわれています。

 綿は、木綿コットン(日本へは799年(延暦18年)三河国が初見)、麻綿リネン、パンヤなどがありますが、

 真綿(まわた)は、絹の一種で蚕の繭を煮た物を引き伸ばして綿にした物。日本においては、室町時代に木綿の生産が始まる以前は、綿(わた)という単語は即ち真綿の事を指していた。(wikipedia 真綿より抜粋)

 

 さて、これらの繊維類ですが、「紵麻」で検索すると、太布というのがヒットします。

 太布(たふ)は、綿花以外の植物繊維で織られた布全般を指す。現代では、その一部の技法が伝統工芸として残ったため、楮(こうぞ)や藤蔓から作られた布のみを太布と呼ぶ場合もある。

 太布の材料の主なものは、麻(苧麻、大麻)、藤、葛、楮、𣑥、科(シナ)、アッシが推測されている。苧麻は、糸を引き出す寸前にまで加工した青苧(アオソ)の名称で有名。

現在、日本で木綿の太布を生産しているのは徳島県那賀郡那賀町木頭(旧木頭村)の阿波太布製造技法保存伝承会だけである。(wikipedia 太布より抜粋)

 

 その徳島県(阿波国)には、麻殖神(おえのかみ)を祀る、延喜式式内社(名神大社)忌部神社が鎮座しますが、穀・麻種を植えたことから地名が麻植郡(おえぐん)(現吉野川市)となったとあります。

 

 

 神紋は「麻の葉」

 

 

 

 ※忌部神社に関しては、またいずれ詳しく考察したいと思います。

 

 いよいよ答えが近づいてきました。

 しかしまだ、邪馬台国北部九州説・畿内説論者からすれば、これしきでは証拠になり得ません。 

 

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男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青

古より、そこの遣使が中国を詣でると皆が大夫を自称

その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる

Nowその風俗は淫乱ではない

Now男性は皆が頭に何も被らない、木綿を頭に巻いている。衣は横幅があり、互いを結束して連ね、簡単な縫製もない

Now婦人は髮を曲げて結び、衣は単被に作り、中央に穴を開け、頭を突き出す

Now水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ

Now細い紵(木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する

牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない

矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い

倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足

朱丹を身体に塗る

飲食は手で食べる

死ねば、棺はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る

死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が禊をする

持衰(じさい)がいる

真珠や青玉を産出する

そこの山には丹(丹砂=水銀)がある

樹木には、楠木、栃、樟、櫪、橿、桑、楓

竹には、篠、簳、桃支

生姜、橘、椒、茗荷があるが、滋味なることを知らない

行動に移るときには、骨を焼いて卜占で吉凶を占う。令亀の法の如く、熱で生じた亀裂を観て兆を占う

会同での起居振舞に、父子男女の差別がない。人々の性癖は酒を嗜む。高貴な者への表敬を観ると、拍手を以て膝を着いての拝礼にあてている

一年に四季があることを知らないが、春に耕し、秋に収穫をすることを計って年紀としている

そこの人々は長寿で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる

尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている

租賦を収めている

立派な高楼があり、国には市があり、双方の有無とする物を交易し、大倭にこれを監督させている

女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている

伊都国王が使者を洛陽や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し、文書、賜物を女王に詣でて伝送するが、間違いはあり得ない

応答する声は噫(いい)と言い、これで承諾を示す