『誰にでもお世話になれる子に~毎日を楽しく!』

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2020年、娘が20歳になった時に書いていた文章を2025年にupしています。【16】のつづきのようなことが、その4ヶ月後に起こり、母の想い描いた娘の生活が現実になってしまったので、blogの時系列がおかしくなってしまいました。ごめんなさい汗うさぎ

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将来のことも考え、年金手続きを機に娘との20年間過ごしてきたことをまとめ
時系列に箇条書きにした生い立ちとこの文章を作って、娘のことが少しでもわかってもらえたと思い書いておくことにしました

「娘のことがわかるノート」にファイリングしています

※時系列は細かいのでblogには載せてません



娘は、4人家族で、兄5才(年長)の時に生まれましたにっこり
妊娠8ヶ月の時に病気であることがわかり、出産後すぐの手術が必要なので対応できる大阪市内の大きな病院へ転院し、帝王切開で出産→手術をしました
病名は、「仙尾部奇形腫」という数万人に1人突然発症する癌のようなものです。昔からある病気で生後すぐの手術だと良性なことが多く、数ヶ月後は悪性に転化する可能性が高いので、生後20日に手術をしました

ですが、腫瘍がかなり大きく骨盤腹腔内にまで滲出し癒着していたため摘出困難で小さな身体には、13時間の手術に耐えられず出血が止まらない状態(DIC)になりました。父からの新鮮血の輸血で出血が止まり命はとりとめましたが、低酸素性脳症になり後遺症が残りました

その後遺症で両手足に麻痺、視力障がい、知的障がい…等、手術の後遺症として、神経因性膀胱、排便困難が残りました
手術後は人口呼吸器が必要なためICUに1ヶ月、病棟に6ヶ月入院し、1年弱自宅静養後、肢体不自由児通園療育施設に母子通園を始めました

数年間は、体力面でもよく感染を起こし夜間に受診、時には入院もしました

母子ともに、右も左もわからない私たちに、訓練や保育の先生方のご指導で、少しずつ日常生活を楽しく過ごせるようになりました

時には話し合いをし、今この子にできることは何かと模索した5年間でした

訓練もボイター法を受けながらリハビリ病院に通院し、ホバース法を経験したりもしました

校区の幼稚園に通園した方がよいのかと考えて体験入園を繰返したりもしましたが、娘には適していないと判断し、幼稚園の代わりの社会経験として、障がい者センターのデイサービスを利用するようにしました

数ヶ月は母子でサービスを利用し、定期的に単独で利用できるようになりました

療育園を卒園後の進路として、地域での存在を知ってもらえるように校区の小学校と偶然にも校区にある特別支援学校で検討しました

自傷行為もあり、多人数の集団生活が苦手な娘が楽しく通学できる学校は?という視点から府立より小規模な特別支援学校(児童生徒数11名)に入学しました。この学校の特徴は校区の学校と交流することができ、大好きな音楽の授業や運動会にも参加させていただきました。音楽の授業ではどこに車イスで着席したらいいのかとクラスで話し合いをしてくれたり、運動会のダンスや徒競争では、徒競争での車イスを押す係に何人もの子どもが名乗りあげてくれジャンケンで決め、競争の時には足並みをそろえてくれる子もいました

運動会が雨で昼から中止になって代替日にも娘が参加できることを「ヤッター」と喜んでくれたこともありました!

そのおかげで、近所をバギーで散歩していても子どもたちから声をかけてもらえ、特別支援学校ではできないたくさんの友だちとの感覚を味あうことができ、地域の方に娘の存在を知ってもらうことができました照れ
特別支援学校へ入学後、長男を育てている時には夏休みは当たり前のように思っていたのですが、障がい児である娘の夏休みには考えさせらました

一般的には、健常児は夏休みを楽しみにしていますが、娘には夏休みが何であるかも理解もできず、なぜ大好きな学校に行けないのかと、そのストレスで自傷行為も多くなり、親子でストレスだらけの「魔の夏休み」でした

そのストレスで右目をたたくのも止めれず、衝撃性の白内障にもなりました

そんな中、2013年4月より法改正があり「放課後等児童デイサービス」の事業所も徐々に増え、長期休みや放課後に利用できるようになりました。初めは、医療的ケアの必要な障がい児が利用できる事業所が2つしかなく十分には利用できませんでした
外出をサポートしてくれる移動支援なども、居住市では小学生以下にはよほどの理由がないかぎり認められず、移動支援の定義が、「自ら行き先を伝え、それを支援するサービスです。行先を伝えれるようになったら窓口へきてください」とのことでした

「ずっと伝えれない子は一生使えないのですか?」の質問に「小学高学年になったら窓口へ来てください」との回答で、最初は数時間/月の散歩からでしたが、5年生から移動支援のサービスをいただけました

その後、学校での宿泊学習をクリアできたので、自立の練習の為、夜間看護師配置がないまま、主治医の許可を得て医ケアを飛ばし、月一度のショートステイもさせるようにしました。夜間にも看護師を配置するのは難しいようです。

こうして、成長に合わせて福祉サービスを使い「一生、誰かのお世話になって生きていくことになるので

「誰のお世話にでもなれる子」

「毎日を楽しく!!」

を目標に育ててきました

その「毎日を楽しく!!」の部分でも、自ら探せないので、できる経験をさせてあげ、楽しめる趣味を作っておいてあげようとしてきました

目が見えなくても、

花の香りを感じられる風の中へ…綺麗な光のルミナリエは感じるかも…生演奏なら身体でも感じられるかも…

と連れて歩きました。それが高じて、数年前よりバリアフリーオーケストラに親子で所属し舞台に上がる楽しさを知りました。母が一緒でなくてもガイドさんとも楽しめる娘の趣味ができました。
私の将来の理想は、親がケアできなくなれば、娘には兄はいますが、それぞれの人生を進んで常に意識しあえる関係でいてほしいと思っています

娘は自立して日常は施設などで生活し、時折、親や兄が訪問して会うことができ、外出することができるようなスタイルになればと思います

できれば、早い段階で、その生活を親が元気な間に外から娘の生活を確立してあげたいと考えています

20歳を機に、将来のことを真剣に考えていきたいと思っています

ですが、今の現状では医ケアの必要な人が入所できる施設もグループホームもないに等しいのです

今回のような感染症問題もあります

今ある福祉サービスを使ってシェアハウスなど、娘が安心して暮らせる場所を見つけてあげること!を子育ての最終章にしたいと思っています

今できることをする!

その日までは、家族一緒に生活できることを楽しみ後悔のないように過ごしていきたいと思っていますニコニコ