(つづき)

■血がドビャッと出る検査と、病室に不似合いなAKBの歌

2月8日(金)の午後、緊張しながら「マンモトーム」の検査を受けに病院へ。
金曜日は通常の診察はお休みのようで、いつもは混み合っている待合室には患者さんが1人しかいなかった。
がらんとした病院の中で、看護師さんだけが忙しそうに行ったり来たりしていた。

すぐに名前を呼ばれ、上の服だけ検査着に着替える。
そこで用意してきたCDを看護師さんに渡した。
検査は20分ほどで、そのあと止血のために1時間ほど休憩が必要だと聞いていた。
いろいろ悩んだ結果、ただただ元気が出るようにとAKB48の音楽を集めることにした。検査後の休憩中にかけてもらえるものだと思っていたので、その時の自分の精神状態を想像しながら、バラードはできるだけ避けて明るめの曲をちょうど1時間で収まるよう選曲した。

しかし。

検査室に入ると、そこでAKBの音楽が流れているではないか!
しかも、わりと大ボリュームで。

カチュ~シャ~、はずしな~がら~♪

「じゃ、ここに寝てください」
しかし、先生も看護師さんもいたって普通だ。

私だけ、
「検査中に流すんだったんだ!!! どうしよう、浮かれた曲ばっかりだし、うるさいし、もっと先生の集中力が高まるようなものにすれば良かったよ!!」
と、ひとりそわそわしていた。

検査台に寝転ぶと、消毒液を塗られて麻酔を2本。
1本目を打ってすぐに効き始めたからか、「痛くないように、奥の方にも打ちますね~」と2本目を打たれたときは、ほとんど痛みを感じなかった。
「では、始めます」と先生。
「え、もうですか?麻酔はもう効いてるんですか?」と焦る私。
「大丈夫ですよ。もう痛みは感じないはずです」
と言いながら、先生がプラスチック(に見えた)のドリルのようなものを取り出した。
「冗談か!?」と思わず突っ込みたくなったが、もちろんそんな余裕はない。
ドドドドドとドリルを動かし始め、ついに私の胸に穴が開けられた。

体に鈍い振動は感じたが、痛みはほとんどなかった。
時々、引っ張られるような痛みが奥の方にあって「いてっ」と声を上げてみた。
痛みよりも、感覚のないところで自分の体に穴が開けられている、ということがとにかく不安で、気持ち悪かった。
消毒液なのか、自分の血液なのか、脇の下を生暖かい液体が何度も伝っていった。

ドドドドドドド
フラインゲット~♪ 僕は一足さき~に~♪

5分くらい経って、一旦終了。
「今取った中にきちんと目当ての細胞があるかどうか見てきますので、ちょっと待っててくださいね」
と、ここで先生がまさかの一時退場。
胸の傷を押さえてくれている看護師さんと二人きりで先生を待つことになった。
たぶん、その時間は1~2分だったと思うけど、ものすごく長く感じた。

大好きだ、君が大好きだ、僕は全力で走る~♪

狭い検査室で、AKBの元気な歌声が響く。
この時だけは、CDをAKBにして良かった、と心から思った。

「もう1回だけ、取りましょう」
と、先生が戻ってきて一言。
「はい」とうなずきながら、ただひたすら耐えるしかなかった。

痛みは少ないものの、極限の緊張状態と気持ち悪さで、時間が伸びれば伸びるほど精神も体力も消耗していく。
でも、私がここでくじけてしまって、後日、再検査になることだけは避けたかった。
ただその一心で目をつぶって耐えた。
胸には布をかぶせているので自分では見えないのだが、それでも顔を横に向けていると、10秒に一回くらい、先生と看護師が「大丈夫ですか?」と聞いてくる。
「大丈夫だから、早く終わってくれ」とはもちろん言えず、「大丈夫です」と返し続けた。
「AKBだってめっちゃ大変だけど頑張ってるし!!」
と、わけのわからない励ましをしながら、何とか検査を乗り切った。
あと5分、検査が長引いていたら、私は気を失っていたかもしれない。

止血用のガーゼを貼られ、包帯で胸をぐるぐる巻かれて休憩室へ。
不安が一気に溶けて、涙が一筋、頬を流れた。

でも、終わってみれば、解放感もあってか、わりと元気で、いざとなればタクシーで帰る準備もしていたが、普通に電車で帰ることができた。
麻酔が切れた後の痛みも心配するほどではなかった。

当日は入浴、飲酒禁止。運動と湯船に浸かるのは2~3日禁止(シャワーは2日目からOK)。
制限はそれくらいで、仕事も普通にできたし、日常生活におけるダメージが予想以上に少なかったのはありがたかった。

■今日から始まるのか、今日で終わるのか

結果を聞くまでの10日間は、仕事もプライベートも予定をたくさん入れて、病気についてはあまり考えないように過ごした。
でも、ふとした瞬間にやっぱり頭をよぎる。
良性だった場合、悪性だった場合、先生が私にそれを伝えるどちらの場面も、交互に思い浮かんだ。

あぁ、怖いなぁ!!!
病院、行きたくないなぁ!!!

当日、電車を待つ駅のホームで、恐怖で涙を流す私。
でも、でも、行かなければ!!

待合室に座ると、祈る間もなく名前を呼ばれた。
ドアを開けた瞬間、笑顔の先生が見えた。
「検査、お疲れさまでした」
そして、
「結論から言いますと、大丈夫でしたよ。悪いものじゃありませんでした」

ほっとして、全身から力が抜けた。
パソコンに「乳腺症」と先生が打ち込む。
「念のため、今後も一年に一度は検査をしていきましょうね」

「はい、はい!!」
私は力強く答えて、深々とお辞儀をして先生にお礼を言った。

嬉しくておかしくて、何よりほっとして、病院を出てひとりで笑った。
こうして、突然降りかかった54日間の試練は、幕を閉じたのだった。


■病気はしんどい

今回、幸運なことに私は癌ではなかった。
しかしそれは、「今、乳がんでなかった」というだけの話だ。
体の他の場所、また、将来のことは、わからない。

この経験は、私に多くの「気づき」を与えてくれた。
それを言葉にすると、結局は「健康のありがたみ」という月並みな言葉になってしまうだろう。
でも、本当にそれがすべてだと思う。

もし私と同じような不安な状態になった人がいるなら、私が言えることは1点だけ。
この時ばかりは、変に強がらずに、まわりの人を頼った方がいい、ということ。
とにかく不安で心配で、極限の精神状態になることは間違いない。
そういうときは、できるだけ一人でいないこと。
誰かと一緒にいて、病気の話をしてもいいし、全然関係ない話をしてもいいから、一人で考え過ぎてしまうのを避けるのが一番だ。

私も、多くの人に支えてもらった。
家族はもちろん、検査の日を覚えてくれて心配してメールをくれた多くの友だち。
みんなに「痛かった!不安だった!」と言うだけで、かなり救われた。
「きっと大丈夫だよ」
みんなが言ってくれたこの言葉が、一番のお守りになった。


病気はしんどい。
これは、間違いない。
それはなぜか、と考えた。もちろん、痛い、だるい、動けない、と病状に対する体のつらさもあるけど、何よりそういう状況になると、自分のことだけでせいいっぱいになり、余裕がなくなってしまうからだ。
人を思いやったり、誰かのために何かをする余裕がなくなってしまう。
我先にと自分のことを神頼みしてしまうのである。
キレイゴトではなく、人が生きる喜びは、誰かに必要とされ、誰かの役に立ち、誰かに感謝されることにあると思う。
自分のためだけに生きていく生活は、切なくて哀しい。

だから、そうならないために。
食べるもの、寝ること、ストレスをためないこと。
病気になる原因はさまざまあるけれど、この毎日の一つ一つの積み重ねが、やっぱり一番大事だと思う。

それでも、今は2人に一人は癌になってしまう時代。
治療の研究もどんどん進んでいる。まずは早期に発見するために、きちんと検診を受けること。
自分は大丈夫、は、絶対に大丈夫じゃない、と声を大にして言いたい。

私もこれからは、今までいじめ続けてきた自分の体をいたわって生きていこうと思う。

と、まぁ、33歳にしてこのことに気づけたのだから、胸に穴を開けられた代償としては、じゅうぶんだろう。

もし、これを読んでくださった方の中に、いま、体を酷使してしまっている人がいたら、ほんの少しの生活改善でいいので、始めてほしいなと思う。
自分の体の声に、しっかり耳を澄まして。
できうる限り、命を大切に、どうか、みんなが健康に生きていけるように。
この54日間を終えて、私はいま、そう願っている。


<おまけ>
◇54日間、いろいろ見てきた中で、情報が詰まっていて役に立ったサイト
ガンが消えたひとに、何を食べたのか教えてもらった


◇読んだ本たち。詳細をここで説明するのは割愛しますが、どの本も感動しました。
はなちゃんのみそ汁/文藝春秋

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僕の死に方 エンディングダイアリー500日/小学館

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これは、2012年12月26日(水)から2013年2月18日(月)の54日間で私に起こったことの記録です。

■それは突然やってきた

カフェでの一人仕事を終えて、ふらりと家に帰って来た、昨年末の12月26日。
郵便受けを開けると、A4サイズのピンクの封筒が入っていた。
1ヵ月前に初めて受けたマンモグラフィーの結果だった。検診結果というのは、だいたい検診を受けたことを忘れた頃にやってくる。

何気なく封を開けた私に、まず、目に入ってきたのが、「D2=要精密検査」という文字。
そして、「右MO淡く不明瞭集簇性石灰化」という何やら見慣れない言葉。

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突然、目の前が真っ暗になり、心臓が高鳴った。

「γ-GTPが高いですよ」とか、「血圧の下が高めですね」とか、今までの健康診断で言われてきたものとはまるでレベルが違った。
だって、マンモグラフィーとは、「乳がん」の検査なのである。
それで「要精密検査」ということは、「乳がん」かもしれないのだ。
決して大げさではなく、目の前に「死」が近づいてきて、この手でつかめそうな気がした。

「いやだいやだ」と泣きそうになりながら、コートも脱がず、衝動的に携帯を取り出して、書かれてあった、病院の電話番号をプッシュした。

「あの、せ、精密検査の結果を受け取ったのですが」
声が震える。
電話先の男性が「あぁ、そうですか。そこに書いてある通り、専門の病院で検査を受けられてください」と言う。「せ、専門、ですか?」「はい、乳腺外科です」。

このときまで、「乳腺外科」という専門科があることすら、私は知らなかった。
慌ててパソコンを立ち上げて、「乳腺外科 東京」で検索。
一番上に出た病院が家からわりと近かったので電話をすると、「いま、大変混んでおりまして、次の検査のご予約は、2月になります」と言う。
――に、2月? 1ヵ月以上先?!ふざけるな! そのときにはもう全身に転移してるわ! 
気分はすでに末期がん患者である。
他の病院も同じなのかなと、どんよりした気分で、ネットの2番目に出てきた病院に電話をしてみると、1月10日に受診できると言う。それでも2週間ほど空いてしまうが、年末年始を挟むので仕方ない、と諦めて予約した。
いつになく落ち着かない年末年始となってしまった。

■極めて低いけど、100%「癌でない」とは言い切れない

年末年始、帰省した実家でゆっくりと過ごしながらも、「 癌」が頭から離れることはなかった。調べれば調べるほど、乳がんは恐ろしい病気だと思った。転移しやすい特徴、とか、20代・30代の患者が増えている、とか。
映画『余命1ヶ月の花嫁』の榮倉奈々の顔が浮かんでは消えた。

ただ、調べていくうちに、「石灰化」というものの正体が少しわかった。
腫瘍とは違う、石灰化という沈殿物は、体のどこにでもできる可能性があり、胸にできた場合、だいたいその20%(数字はサイトによって微妙に違う)程度が悪性だと言う。
しかし、救いなのは、その石灰化が悪性だったとしても、ごく初期で、そんなに悪さをするものではない、ということのようだった。
また、20代・30代のマンモグラフィー検診ではこのような症例が多く、私と同じ検査結果の文言を受け取った人が「ドキドキしたけど検査をしたら良性だった!」と言っている書き込みもたくさんあった。
しかし、その中に混じって、やっぱり「私は悪性でした」と言う書き込みもある。
それが、「20%」ということか……。微妙な数字である。


年が明けて、検査当日、祈るような気持ちで病院へ向かった。
ものすごく近代的でキレイすぎる病院の中に、何だか暗い顔をした女性がたくさんいた。

「マンモトーム、という精密検査をしましょう」
マンモグラフィーの再診と、エコー検査の後、結果を見ながら、担当医となる先生は穏やかな口調でそう言った。
「これがね、石灰化なんですよ」
そう言って先生が指差したフィルムの、右胸の脇の下あたりに、白いポツポツが見える。
「この形状の場合、ごくまれに、癌の場合があるんです。可能性は低いですが、100%ないとは言い切れないので、次の検査をしましょう」
そして、「マンモトーム」という検査の説明をされる。
3mmの針を胸に刺して石灰化の一部を取り、悪性か良性かを検査する、いわゆる細胞診だ。
3mmの針を胸に刺す――?
胸に穴を開けて血がドビャっと出ている写真を見せられた。

頭がクラクラする。私は事の成り行きを受け止めるのに必死だった。
「当日は、好きな音楽をかけられるので、CDを持ってきてもいいですよ」
と、優しそうな看護師さんが、冗談みたいなことをさらりと言う。
「はぁ……」

マンモトームの検査は、1ヵ月後の2月8日しか予約がとれず、結果はさらにそれから10日後だと言う。
その時間は、私の容態が緊急ではない、ということを表しているのだろうが、早く白黒付けたい私にとっては、気が遠くなるような時間だった。

「あの、もし癌だった場合、どうなるんでしょうか?」と恐る恐る先生に聞くと、
「大丈夫、これが癌でもごく初期なので、100%治療できますよ」と笑顔で答えてくれた。
その言葉が、この日、唯一の救いだった。

年末、紙切れ一枚の告知で広がった得体の知れない恐怖が、いま、目の前で私の体を実際に見た医師が冷静に事実を伝えてくれたことで、すっと和らいでいった。
――お医者さんてすごいな!
子どものような素直さで、心からそう思った。
手でつかめそうな位置にあった「死」が、また少し遠ざかったような気がした。

■苦しかった、検査までの1ヵ月

しかし、この日から検査までの約1ヵ月。私の体と心は今までにない窮地に立たされることになる。

腰痛、風邪からノドの違和感、生理不順、耳鳴り……。次々と不調が私の体を襲う。すべて精神的なものだと思うのだが、自分ではどうしようもなかった。
見てもらっている乳がんよりも、調べていないところの方が怖かった。
今まで考えたことのなかった、「自分が癌になるかもしれない」という事実。
すでに私の体には癌が巣食っていて、進行しているのではないか。
腰痛は卵巣がんや腎臓がんだし、ノドの違和感は食道がんと咽頭がん、生理不順は子宮がん、耳鳴りは脳腫瘍……。
体に起こる症状をネットで調べると、だいたい「癌」に行き着くことを、このとき悟った。


東京に大雪が積もった翌日、近所の神社へ少し遅い初詣に出かけた。本厄が終わる節分まで、あと2週間。

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まだ雪が残る神社で、人もまばらな平日のお昼に、一生懸命ひとりで祈った。
――癌ではありませんように。この先も生きていけますように。
しかし、家族や大事な人の幸せより、我先にと自分のことを祈る自分が恥ずかしくなり、こんな私のことなんか神様は守ってくれないかもしれない、などと考える。
――でも、でも、お願い、今だけは許して。
お詣りをしながら涙が出たのは、生まれて初めてのことだった。

この頃、私は癌や、病気、死についての本ばかり読んでいた。
もしものときのための心づもりをしておきたかったのだ。
それが良くなかったのかもしれない。そもそもまだ、癌だと決まったわけではないし、どれだけ本を読んでも、覚悟なんてできるわけがない。それらの情報から少し離れた方がいい、と思って、今度は一切病気のことを考えないようにと切り替えた。
それもまた、無理があったのだろう。
娘を心配して電話口で健康について話す親に向かって、「今はそんな話聞きたくない!」などと強い口調で言ってしまったこともある。ただならぬ娘の気配を感じ取り「今すぐ東京に行こうか」などと両親が心配してしまうのも、無理のないことだった。


20代、私は毎日のように飲み歩き、外食中心、常に睡眠不足でストレスの多い仕事をしていた。
細く長く生きるよりは、短くても充実した毎日を送りたいと思っていた。
好きなものを食べ、好きな仕事をしている。それで死んでも本望だ、と。
しかし一方で、おばあちゃんになった自分もどこかでしっかり想像していたのである。

自分がこんな状況になって思ったことがいくつかある。
なぜ、当たり前のように、誰もが「おばあちゃん」になれると思うのか。
そして、「明日死んでもいい生き方を」とよく言うが、明日死ぬかもしれない人は、そんなことは到底思えない、ということ。どんなに素晴らしい生き方をしてきても、いくつになっても、悔いは残るし、やりたいことは尽きないものだ。未練たらたらで、それでもやむを得ず諦め、受け入れて人生は終わるのではないか。

起こることすべてに意味がある、というのが私の信条だ。
だとすると、いま、私は一体、何を試されているのだろう。

しぶしぶ、この試練と向き合う覚悟を決めるに従って、体調も少しずつ落ち着いてきた。
そして、2月8日、私はマンモートーム生検へとのぞんだ。


(つづく)
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1980年1月30日。
久保田早紀が「異邦人」を歌っていた年に、私は生まれた。
2450gの未熟児だった。出産予定日は3月10日だったが、姉を抱き上げた瞬間に破水してしまったのだという。せっかちな私は、40日も早くこの世に出てきてしまった。

今でこそ2450gという赤ちゃんは決して小さすぎることはないが、当時の医療では、月を満たずに生まれたこの体重は、かなり危険だったらしい。
生まれてからしばらくの間、私は生死の間をさまよった。とりあげてくれた助産婦さんは「せっかく授かった命だから、取りこぼさないように」と言って、小さな私のことを一生懸命守ってくれた。

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「あんたが生まれたときは本当に寒くてねぇ」から始まるこの誕生のいきさつを、18歳で実家を出るまで、誕生日のたびに父と母から聞かされた。毎年1本ずつ増えていくケーキのろうそくを前に、いつも母は話しながら涙ぐんだ。

小学生の時まで毎年6cmほど順調に伸び続けていた身長は、中学生になってその速度を弱め、高校生の時に平均よりもかなり低いままで止まってしまった。

小さくて苦労したことはたくさんある。
小学校に入学した時は1mに満たなかった。ランドセルの中身を姉に持ってもらい、私は空っぽのランドセルを背負って通学。1m定規を手に持ったクラスの男子に「これより小っさい!まめつぶー!」とからかわれた。泣きながら帰って来た私を、母はどんな気持ちで抱きしめてくれたのだろう。

いくつになっても電車の吊革には手が届かないし、冬の満員電車では、前の人のフードのふわふわが顔に当たり、息ができない。
 
しかし、そのような経験をしていくうちに、私の中で「負けず嫌い」な性格が育っていった。運動は背がハンデになるならと、必死で勉強をした。

やがて、ミニスカートを普通丈のスカートとして履き、七分袖のTシャツを長袖として着る術を覚えた頃、コンプレックスだった背の小ささは私のキャラクターとなり、また強みとなった。


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2013年1月30日。
私は33歳の誕生日を迎えた。33年前、大事に大事に取り上げられた命は、今もまだその炎を燃やし続けている。
この33年間で出会った人たちの顔が、いま、次々と思い浮かぶ。
ありがとう、と、一体どれだけの人に、何万回伝えれば、この思いを届けることができるだろう。

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誕生日は、生まれてきた奇跡を噛み締める日。