大隅典子先生のブログに

「自閉症という知性」という本の紹介がありました。

 

わたしが発達障害が治るという言葉に対して違和感があるのは、まるで治すべきととらえているところです。

 

定型発達が多数の社会ではそのシステムは定型発達が育ちやすい環境が整備されていると思います。

 

学校での集団生活は感覚が過敏な発達障害、顔の区別がつかない相貌失認がある子どものストレスは大変なものです。そしてそれは簡単には治らないんです。

また、学習の仕方が定型発達と同じような方法よりも自分独自のほうが上手くいくのです。

 

子どもの認知の仕方、特性を見つけて支援することが必要だと思っています。その結果、社会で生きていければいいと思います。

「治す」という言葉は大隅先生のブログに書かれているようにまるで「がん」のように取り除く対象のような扱いだと思うのです。

 

それから神経発達という言葉についてですが

正確には神経発生発達障害だと思います。

大隅先生の本「脳からみた自閉症」のP14に

 

日本語では子どもが生まれるまでを「発生」、生まれた後を「発達」と区別していますが、英語ではどちらもひとくくりにしているわけです。

 

 

 

 

https://nosumi.exblog.jp/27489411/

 

自閉症の方は感覚過敏が強かったり、コミュニケーションのとり方がニューロティピカル(NT)の方と異なるために、NTがマジョリティである社会での生きづらさがあることが知られています。一方で、NTの方とは異なる認知様式は、いろいろな創造性の源ともなっている可能性についての指摘は、エッシャー、ダリ、ウォホールなどのアーティストの例として本書でも取り上げられています。
 
米国よりも日本では同調圧力が強いことによって、多数派と異なる個性を持つ方がより生活しにくい側面もあるのかもしれないと感じました。
 
本書の中で「I am autistic」という捉え方と、「I am a person with autism」という捉え方の違いについて言及されている点が興味深いと思いました。前者では、自分の個性全体として「自閉症的」と捉えるのに対して、後者ではあたかも「がん」のように取り除く対象のように扱われるので、徐々に前者のような考え方の方が増えているとのこと。池上先生は「自閉圏」という言葉を使っておられます。
 
「自閉圏の人々の知性のあり方を単に医療・福祉の次元のみで考えること」について池上先生は問題提起し、「それぞれに個性的で内面に豊かな世界を抱えている人々」がいることを知ることによって、よりインクルーシブな社会になるべきと考えておられます。
 
私自身、拙著『脳からみた自閉症 「障害」と「個性」のあいだ』(講談社ブルーバックス)において、自閉症を単なる「障害」とみなすべきではないことを提唱し、領域代表を務める新学術領域研究「多様な<個性>を創発する脳システムの統合的理解」において、学際的な研究グループにより議論を深めています。
 
本書が多数の方々に読まれることを願っています。