先日、91歳になるメルボルン在住で日本生まれのユダヤ人のフィーリックス・キャラディさんの話を聞きました。

その内容は下記の通りです。


僕の両親はユダヤ人で、イラクのバグダッドの出身です。
第二次大戦が始まってナチスに賛同するイラク政府ができると暴動が起き、それまでイスラム教徒と仲良く共存していたユダヤ人が150人殺されました。第二次大戦後、イスラエルができるとほとんどのユダヤ人がイスラエルに移り住みました。父の話では、イランには5人しかユダヤ人が残っていなかったそうです。
僕の家族は世界中に会社を持つビジネスマンでした。両親は1920年代にバグダッドからインドのボンベイに移り、綿製品の製造と輸出で成功しました。3人の姉達はボンベイで生まれました。その頃インドはイギリスの植民地だったので、インドに5年以上滞在したら、英国籍が取得できました。だから、家族は英国籍を取りました。
家族は1934年に日本に移り、僕は日本に着いて一か月後に神戸で生まれました。父は日本製品をイラクに輸出する輸出業者でした。ペリーが日本を開国させて70年後のことになります。
子供の頃の思い出は六甲山にある別荘で従妹たちと遊んだことです。そして日本人の親切な家政婦さんたちのことも覚えています。
1940年に父は上海に会社を作ることにしたので、家族は上海に引っ越しました。私が6歳の時です。上海で学校に行きましたが、1年後の日本の真珠湾攻撃で、戦争が始まりました。そして上海は日本軍の支配下におかれました。インドで英国籍を取得していたため自分たちは敵国である英国人とみなされ、国のイニシャルを取った腕章をつけることを義務付けられました。僕の場合はB3436でした。Bは英国Britishの頭文字です。
その時7歳でしたが、朝5時に起きて、砂糖やコメの配給をもらうために列に並ばなければいけませんでした。
そして1943年3月15日に皆揚州にある収容所に送られました。ギュウギュウづめの船に乗せられましたが、降りたところで目隠しされ、ぐるぐる回され、方向感覚を狂わされました。6か月後、そこから上海郊外に移動させられました。子供に飲ますミルクが足りないので、子供がいる家族だけ移すと言うことでした。そこで豆乳の味を覚えました。一度アメリカの戦闘機が収容所の壁を破壊したことがあります。皆外に出て歓声をあげましたが、日本軍の兵士がピストルで空中を撃ち、逃げたものは撃ち殺すと脅したので、だれも脱走しませんでした。父はバンコックに出張に行っていて、タイで日本軍に捕まりバンコックの収容所にいれられたので、収容所にいる間、父とは離れ離れになりました。父とは5年後に再会できました。
戦争が終わって、アメリカの海兵隊に解放される数日前に、B29が食料を空から落としてくれました。ドラム缶をパラシュートもつけないで落としてくるので、危険でした。また手に入れた食べ物がこってりしていて、おなかを壊した者が多かったです。
収容所の日本人の所長は、皆の面倒を精一杯みてきたつもりであると、最後のあいさつで言いましたが、私もそう思いました。日本軍は残虐だと定評がありましたが、僕たちのいた収容所では、一度だけ暴力を振るわれたユダヤ人がいましたが、それ以外誰も暴力を振るわれたことはありませんでした。
話は変わりますが、僕は、戦争中、杉原千畝が多くのユダヤ人を救ってくれたことに感謝しています。リトアニア領事だった杉原は、ナチスから逃れようとしたユダヤ人に、日本へのビザを発行してくれました。そのため多くのユダヤ人はベネズエラ近くにあったオランダ領のアンティレスに行くことができました。彼らは最初シベリア経由で敦賀港に行って、神戸から船を乗り換えて、上海に行き、上海から逃れることができたのです。杉原はユダヤ人に無断でビザを発行したため満州の輸出事務所に左遷され、貧しさの中で死にました。杉原の家族が貧困に苦しんでいたので、私の大学時代の友達のマイケル・デュカキス(ブッシュ シニアと大領当選を争って負けた民主党候補者)は、朝鮮戦争のさなか仕事に行く途中で東京にいた私を訪ねてきました。マイケルは、マサチューセッツの知事になった人ですが、彼は杉原の遺族にお金を上げて助けたと言うことです。
杉原は、どうしてユダヤ人を助けたのかと聞かれたら、武士道の精神によるものだと答えたそうです。傷ついた鳥を見たら、また飛び立てるように助けなければいけないと思ったと言います。ドイツのシンドラーや、ハンガリーのユダヤ人を助けたスエーデンの銀行家ウォーレンバーグ以上の功績があったと思います。杉原の勇気と親切心に最高の敬意を表したいです。
日本軍から解放された上海は、毛沢東の共産党勢力が強くなったので、両親は私をニューヨークの寄宿舎がある学校に行かせました。その後、ハーバードやイェール大学からもオファーがあったけれど、ペンシルバニア州にある小さけれど、名門のスワースモア大学に行きました。その大学の先輩には、日本の軍事化に反対した松岡洋子がいます。学生ビザだったので、大学卒業後、アメリカを出国しなければならず、その頃香港にいた父と、東京にいた従兄のエリスに相談して、東京に行くことにしました。
その頃マッカーサーの経済政策に優先外貨と言うのがありました。千ドル輸出をすれば、100ドルの輸入を認めるというものです。だから販売の割り当てを利用して売買し、儲けました。トランジスターラジオの製造会社を買い、トランジスターラジオを輸出して儲けました。その会社は東京と名古屋と大阪にオフィスがありましたが、私は1年東京で過ごした後、1年大阪のオフィスで働きました。大阪に勤めている時は、神戸から通いました。以前神戸にいた時は家族と一緒だったので、その時のことを思い出して、寂しかったです。
2年間日本にいましたが、その頃は日本人の友達と、よくスキーに行ったものです。乗鞍とか、志賀高原、岩原などに行きましたが、その頃はリフトもないので、自分の足で登らなければいけませんでした。
東京にいた時は横浜スポーツクラブに入会して、サッカーも楽しみました。また日本人の女友達と一緒に箱根や日光、富士山に行きました。その頃、彼女たちから日本語を習い、大いに上達しました。しかし、女言葉を使うようになったため、日本の男の人から、からかわれることもありました。またショパンやランブラとかモーツアルトとか、音楽を聞かせる喫茶店にも通いました。80円でコーヒーなどを頼むと、好きな曲を選んで、かけてもらうことができました。私のお気に入りはモーツアルト、クラリネットコンチェルトK66アダージオ楽章でした。
NHKオーケストラのコンサートにもよく行きました。
日本国籍を取ろうと思いましたが、生まれは日本でも父親が日本人ではないから取れませんでした。その頃は、アメリカではアメリカで生まれたら国籍が取れたものです。今では取れなくなりましたが。
銀座には変わったサロンがあって、階ごとに違ったタンゴの曲が流れていたところもありました。
歌謡曲も好きで、フランク永井の有楽町で会いましょうや、浜村道子のバナナボートも、美空ひばりの歌も好きでした。
さようなら、さようなら、今日限り、アイちゃんは太郎の嫁になる
は、覚えています。
98歳になる姉は日本語で、「日本語は忘れました」と言ってましたが、童謡の「雨雨フレフレ」や、君が代の出だしも覚えていました。85年前に覚えたものですが、まだ忘れていないようです。
スインバン大学で外国人に英語を教えていた時、二人の日本人の女学生が、自分の言うことに何でも頷くので、日本語で「あなた、なにも、わたくしのはなしは、わかりませんでしょ」と言うと、分からないことを認めたので、何度も教えた結果、段々分かるようになっていった経験があります。
9歳から12歳までの戦争体験は怖かったですが、日本に関してはいい思い出がたくさんあります。