はじめまして。
ADHDとASDを抱えながら生きている30歳の人です。
現在社会人生活10年目。いろいろ苦労はしながらもなんとかやってます。
私の生い立ちを簡単に説明すると、日本の南端の片田舎で小学校中学校と過ごし、それから同じ県のちょっとだけ街の方
の高校を出ました。
私は3月生まれという事もあり、周りの皆よりだいぶ心身の成長が遅かった(小学校は特に)。
もう記憶が曖昧であまりよく覚えてないけど、小学校の頃はとにかくクソガキだったと思う。
悪さももちろんしてたと思うけど、それよりも授業中に突然脱走したり、人の話全く聞かず行事やグループ活動で回りに迷惑をかけてしまういわゆる「迷惑系」だったかも。私の頃って療育とかそういうのが全然世の中に浸透してない時代で、私以外にもグレーゾーンな子はいたけど、私も含めそういう子たちは「変わった子」や「(脳が)足りない子」と言われながらも1クラス25人程の中で集団生活をしてた。
この話をすると「低学年の頃はみんなそう」とか「学年が上がれば大丈夫でしょ」と良く言われるけど、私はそういうわけでもなく、小学校高学年になってもあんまり調子は変わらなかったかも。
今思えばかなりのお調子者で、奇声を発して目立とうとしたり、他人に抱き着いてみたりで、自分でもこんな子いやだなって思う。
そんな小さい頃の私は自他ともに認める大の工作好きで、ものづくり(特に電気を使った電子工作)が大の得意だった。小学校4年生ぐらいの時だったかな、ゲルマラジオといって無電源で中波AM放送を聞くことができる簡易的なラジオ受信機を自作したことがあった。本当に興味関心が偏ってて、興味のあることには一直線だったんだと思う。
肝心な学業の方はというと、学年でいうところの下の下だった。だって授業を聞いてないし、集中力も持って5分だったから。
普段から脳内で音楽が無限リピートされたり、帰ったら何しよう・先生ずっと喋ってて疲れないのかな・購買部で何か買おうかな・今日のお昼は何だろう といった具合に脳内がとにかく忙しかった。
今この記事を書きながらもあれ書こうこれ書こうとネタは無限に思いつくのに、いざ筆を進めると(キーボード打ち始めると)記憶が飛んで別のこと書いてたりする。
そんな小学校時代だったけど、幼かった私でも未だに許せないことがあって、小学校5年生と6年生の頃の隣のクラスの担任が凄く嫌いだった。2クラスしかない小さな学校で、かつ少数だったこともあり児童同士も、児童と教師も距離が近い感じでアットホームな雰囲気だった。そんな自分のいるクラスで6年生の時にいじめが起きた。私はどのグループにも属していない(というかはじかれてたかも)から当たり障りなく過ごしてたのね。いじめは1学期から始まって2学期の終わりごろになっても終結してなかったから、しびれを切らした隣のクラスの担任があるとき私のいるクラスの数人を呼び出して説教を始めた。なんとそのなかに私まで含まれてて、自我のはっきりしない私はなんで呼びつけられたのかも訳も分からないまま説教を受けてた。その時私は全く加担していなかったから、私は当事者じゃないとはっきり言えば済む話だったのに。当時の自分は自分の生活態度とか授業態度が悪くて、叱られるのに慣れてたってのもあると思う。たぶんね、今思えば先生は普段から良く怒られてる奴、なんとなくいじめに関わってそうな奴を選んで呼びつけたんだと思う。呼びつける前の聞き取りとかは一切なかった。もう今だと大問題だよね。
ある程度自我がはっきりしだしてからこの手のこと思い出すんだけど、普通に私が悪くて怒られた事と、とばっちりで怒られた事って割合的に5割5割だと思う。はっきりものを言えなかったからすごく怒られ損をしてたんだよね。
そんなこんなで中学時代。
1年生になって、まず上下関係が厳しくなっていることにかなり戸惑ったのを覚えてる。小学校時代親しくしてくれた1つ上のA君が別人のように厳しく接してきた。幼いころから人の機嫌がコロコロ変わることを極端に恐れてた私(多分親の影響)にとっては裏切られた感があったんだと思う。(A君はそんなつもりはなかったと思うけど)
私の学年は小学校からの持ち上がりでほとんどメンバーも変わることなくただクラス替えだけがあった感じで中学生になった感は最初はあんまり感じなかった。
部活にも入ってちょうどそのころ学業がかなり危うい状態だったので学習塾にも通い始めた。
部活動は身バレが嫌なので武道とだけ言っておく。
この辺の頃から、それまで何ともなかった"女子"の存在を多少意識し始めたかな。相変わらずお調子者で目立ちたがり屋だったけど、どことなく「恥ずかしさ」もあってか、小学校の頃程は奇声を上げたりは減ってたと思う。
で、学習塾に通い始めたって話なんだけど、私のいた中学校って田舎の閉鎖的な学校で、割と皆まじめで学力は県内でも高かった方だと思う。そんな環境で当然私は落ちこぼれの類に入ってたのね。
私の親もプライドが高く、なんとか成績を上げようと必死だったと思う。学習塾は地元のメンバーが多くて、10人ぐらいが同じ中学校から通ってたと思う。当然学習塾の先生も私を前にして頭を抱えることになったよね。その頃の私は意外と器用になっていて、先生の話を聞いてるふりが出来るようになってた。でも脳内で考えてるのは、明日何しようかな・帰ったら何のテレビ見ようかな とかそんな思考になっており、とにかく脳内が忙しいのは変わらなかった。
そんな感じだったので当然成績が上がることはなく、学校のテストを塾に持って行って見せるのがとにかく億劫だった。
でも、前述の通り全部の教科が全くダメかと言われたらそんなことも無くて、理科だけは塾に通ってた10人の中でも頭張れるぐらいの実力はあったよ。この頃発達支援員みたいな人(よく覚えてない)も家に出入りするようになって、カウンセリングみたいなのも受けてた。(実質家庭教師みたいな感じだったけど)
そんなこんなで中学校は1年、2年と過ぎて3年生になるころにはしっかり思春期真っただ中の生徒に仕上がってた。
目立ちたさと恥ずかしさでやきもきするようになってたと思う。でも相変わらず思考回路は小学生のまんまだったと思う。
そんな3年生の時にちょっとした事件が起きた。その当時好きな女の子が居て、地元のお祭りだとか登下校の時とか、私の属していたグループとその女の子の属していたグループが仲が良くてよく仲間内で遊んだりしてた。密に青春を楽しんでたんだよね。
で、当時お世話になってた発達支援員みたいな人は20代になったばっかりぐらいの同性の人だったんだけど、なんとなくボディタッチとか、距離が近いのは鈍感な私でも気づいてた。当時はスマホとかなくて、たぶん私ぐらいの年代の人たちは分かると思うんだけど携帯ゲーム機(PSPとか)が命の次に大事なぐらいいつも携帯してたのね。動画とか音楽も聞けたし便利なツールとして。
ある時ゲーム機でHな動画(画像だったかな)見てるのを支援員の人に見られて、とっさに隠したけど「見せて」と言われてゲーム機を渡したのね。「こういうのは隠れてみないとね」とからかわれてその日は終わったんだけど、次の週に来た時にその人がガラケーの動画(あんまり覚えてないけど多分アニメ系のそういう動画だったと思う)を見せてきて、あんまり性知識のなかった自分は衝撃を受けた。そこからエスカレートして、なんか印象に残ってるのが「体操服着てみて」と言われてその人が持参したブルマとか小児用の水着とかを付けたりしてお披露目した気がする。私自身は遊び感覚でただただ楽しい思い出になってるけど、今思えばそれが私の中にあった潜在的な性別違和を引き出してくれたんだと思う。まぁ世間的にみるとその支援員の人はとんでもない変態だけどね。私自身はある意味感謝してるからずっと心にしまっておくけど。
中学校卒業して、次は高校。
高校は中学校までの同級生が一切居ない、ちょっと離れた中心地にある街中の私立高校に入学した。
私の学年は500人を超えるマンモス校で、片田舎の1学年が50人もいないような中学校からするととんでもない規模だった。
もうね、人慣れしてない私が突然そんな環境に飛び込んだもんだから、最初は人酔いしたりパニックになったりで大変だった。
でも1つだけ違うのはこれまでの義務教育と違って、学業は選択した学科のお勉強がメイン。普通科目はあんまり重要視されてなくて、そっちは中学レベルとあまり変わらなかった気がする。
自分で選択した得意分野の授業はこれまで自分が体感したことないぐらい集中できた。
テストも普通科目を除けば中の上、良ければ上の中ぐらいに居ることもあった。
自分は出来ないのが当たり前だったけど、ここにきて初めて「他と対等だ」と感じた。まぁそれでもADHDの気質は変わることなく脳内は相変わらず忙しかったけどね。
性の悩みも抱えたりいろいろ忙しい高校生活だったよ。
ちょっと書くの疲れちゃったから、学生編はここまでにして、次は社会人になってからのことや、日頃思う事なんかを書いていくよ。
良かったら見てね。