お金と称賛。
愛護がただのエゴに
変わる時
犬猫の未来は
再び、暗く冷たい場所に
閉じ込められていきます。
家族として
誰かのそばで
温かく
生きられない限り
彼らが真に
救われることはありません。
動物愛護に
纏わり付いている
偏見の多くは
それに関わる
人間に対してのものです。
人として、
精一杯生きることしか
考えていない
彼らの幸せの足を
引っ張ることだけはしたくない。
犬猫達が
安心して暮らせる家庭が
少しでも増えるよう
彼らの素晴らしさを
彼らがいる暮らしの
素晴らしさを伝えたい。
彼らは
可愛いばかりの存在ではないし
可哀想ばかりの存在でもない。
人はあらゆる感情で
彼らをラッピング
したがるけれど
彼らはそんなこと
気にも留めていないし
望んでもいない。
彼らや
自然に
学ぶべきは
いつまでたっても
人間の方だ。
彼らを哀れむ人は
多いけれど
一番哀れなのは
いつだって
人間の方だと思う。
哀れな人間を
減らさなければ
哀れな犬猫達が
減ることはありません。
犬猫が人を
変えることもありますが
犬猫が持て余す人間には
人間がそれを
教え導かなくてはなりません。
愛護団体が
第一にすべきことは
人間の心の
土壌改良であり
犬猫の命を
追いかけることではないと
個人的には
考えています。
そんなこと無理よ。
人は変わらないから。
もし、そう心に
思うことがあるなら
そもそも
犬猫の命に関わる資格は
ないとさえ思っています。
彼らが、生きてさえいれば
どんな家庭でもいい?
里親を厳選すればするほど
そのパイは減っていく。
助けたい気持ちばかりが
先立てば
その見極めは
どんどん甘くなるのは
自明の理です。
世の中は
犬猫が好きな人自体
少ないことを
彼らを愛する私達は
つい忘れがちです。
その上、
犬を飼いたい人が
犬を飼える人とは限らない。
だからこそ
犬を看取りまで飼う人を
そう努力する人を
増やすしかない。
それには
健全な愛着の
育みがなければなりません。
その愛着の育みは
心の学びを深めることでしか
醸成されないのです。
心の学びが先か
愛着の育みが先か
いずれにせよ
この両車輪が
機能していなければ
犬猫達が安心安全に
暮らせる家庭に
ならないことを人間同士が
学びあわなければならない。
彼らは私達を
いつも思っています。
だからそれに見合うくらい
私達も彼らを
思い努力することが
欠かせないのです。
人間であれば誰でも
犬猫と暮らすことが出来ます。
しかしながら
犬を飼いたいという人の中には
正直、飼う資質に
恵まれていない人もいます。
でも、そういう人こそ
人生の課題として
犬を飼うべき
別の理由があることが多い。
学ぶとか
育てるとか堅苦しく聞こえても
難しいことはありません。
伝えるべきことは
いたってシンプルで
当たり前なことだから。
愛護を掲げる以上
そうした学びを
随時提供出来る
教育機能を持ち
彼らとの暮らしを望む人の
掘り起こしに注力して欲しい。
飼い主の質を
担保するための
飼い主の免許制度は
経済的利害を生まない
愛護団体が主体となり
推進すべき事業です。
人を導く手立てを持たない
愛護団体は
これから先の未来
微々たる数の命を救えても
社会の一員として
生きることを望む
その他多くの
犬猫達の役には
立てないと思っています。
「生きてさえいれば」
という考え自体
動物福祉に反すること。
もとより、
人と本音で
向き合うことが
出来ない人が
動物愛護を
駄目にしていく。
個人的には
そう感じています。