犬猫の命
それは
人の命と同じくらい
かけがえのないもの。
多くの
愛護活動は
そうした
心ある人達の思いで
成り立っています。
苦難の中にある犬猫達に
心を向かわせ続けるのは
思うよりもずっと
パワーのいることです。
苦境にさらされている
犬猫達を見て
感情に流されず
自らのキャパシティを鑑みて
長期的な視点から
理知的な判断を
下すことの出来る人にしか
本当の意味で命を救い
守ることは出来ません。
そういうことで言ったら
私は失格。
SNSに溢れている
犬猫達の苦境を見るたびに
胸が搔きむしられます。
行政に通報
警察に通報
愛護団体に連絡・・・。
手の届く命のために
全力を尽くす人達が
集まっているのが
愛護団体でありますが
愛護団体は
行政の出先機関では
ありませんから
出来ることには
限りがありますし
何より
愛護団体で活動する
ボランティアの方々は
普段は別の仕事をされている
一般の生活者です。
政治家でも
法律家でも
革命家でも
ありません。
何の権限が
あるわけでもなく
その活動で
糧を得ている訳でも
ありません。
みんな
それぞれに
生活や家庭や家族や
人生があって
その中の一部に
愛護団体での
ボランティア活動が
あります。
そんな
ごく普通の人達の
集まりである
愛護団体に向けて
放たれる言葉の中には
時々耳を
疑うような言葉も
含まれてきます。
可哀想な子がいるんだけど
どうにかならない?
ボランティア
やっているんでしょ?
だって
助けてくれるんでしょ?
あの子もこの子も
明日死ぬかもしれないんだよ?
助けたいんだよね?
好きでやっているんでしょ?
困っているのに
助けてくれないの?
命を選ぶの?
愛護団体なんでしょ?
何のための
愛護団体なの?
どうせ寄付目当てなんでしょ?
せっかくもらってあげるのに
なんで、煩いこと
言われなきゃいけないの?
活動しているからこそ
見えてくる現実もあります。
活動するようになったからこそ
声に出来なくなる
思いや言葉もあります。
ある人は
ひたむきに犬猫に向かい
あらゆる困難を
出来る限り
乗り越えようとします。
ある人は
知ってしまったら最後
少しばかりの
無理をしてでも
自分のことを棚に上げて
走り出してしまう。
ある人は
繰り返し
差し向けられる
身勝手さを
嘆きながらも
犬猫のためにと
諦めずに話を聞き
改心を願い続けている。
苦境に置かれた
犬猫達の情報を
聞けば聞くほど
そんな環境を
彼らに強いる
心無い人間の持つ
驚くほどの非常識さや
傲慢さには
底無しの闇を
感じずには
いられません。
そうした人間から
犬猫達を
助けたいと思う一方で
犬猫達を盾に
人の善意に
付け込んでくる
人間の悪辣さや
病的な自己中さ
だらしのなさに
足が心が竦んでしまう。
そんな人間に怒りを
燃やしながらも
犬猫達のためにと
奔走する人達の
思いの強さに
圧倒され
そうか
そうかと
後を追いかけていたけれど
犬猫達よりも
大切なものを
持っていたら
愛護活動なんて出来ない。
不意に
そう言われた
ような気がして。
そしたら
そう言い切れる人の強さが
眩しすぎて
ついていけなくなっていた
正義感が先走って
身の丈に合わないことに
手を出した後
結果的に
自分以外の人に
迷惑が掛かることだけは
避けなければならない。
なんて
それは
ただの言い訳。
自分を
正当化したいだけ。
期待に
応えられなかった言い訳。
否、初めから
何の期待も
されていなかったんだ。
勝手に気負って
勝手に沈んだ
とも思う。
ただ、いろんなことを
真に受けて
余計なことを言ったのだ。
でも、それを
言わずには
いられなかったのだ。
私の器量と
度量不足。
あーあ
また、やってしまった。
どっちがいいとか
悪いとか
よくわからないし
正直どうでもいい。
よくわからない。
考えれば考えるほど
よくわからなく
なってしまっただけ。
いつものこと
たぶん、考えなければ
よかったんだ。
余計なことを言わずに
言われるままに
していたら
良かったんだ。
そしたら
何もかも
上手くいったのか?
それとこれは別?
ダメポイントは
きっとまた
違うこと。
犬猫達の為に
愛護団体や
ボランティアの方達が
日々奔走しても
同じような事態が
その予兆の知らせが
毎日繰り返し
やって来る。
その頻度は
減るばかりか
増える一方で
壊れた蛇口から溢れ出る
行き場のない
犬猫達のことを思えば
この瞬間にも
溺れた時のような
息苦しさを感じる。
私が出来るのは
犬猫を飼っている人と
飼われている犬猫が
幸せに暮らせるように
することだけ。
きっと
それだけでは
ダメなのかも
しれないけれど
私には
それしか
出来ません。
犬猫達にとっての私は
ただの人間。
自分に出来ることを
しているだけの私は
きっと
何者でもありません。
今春、
立ち上げた団体も
飼い主である自分が
そうした場の
必要性を
感じてのことで
ありました。
行政も法律も
善意や誠意も
届かない場所にいる人達が
繰り返し引き起こす
多頭飼育崩壊の案件に
関わるたびに
人間の崩壊した精神の穴に
嵌り込んだ犬猫達の
哀れさに胸が
締め付けられます。
人間なら誰しも
そうした暗がりを
心の何処かに
一つや二つ
抱えて生きています。
その暗がりの中で
もがきながらも
その人が
立ち直りたいと
本気で願うなら
チカラになりたい。
けれど
実際は
助ける側の足並みと
助けを求める側の足並みが
揃わなければ
助かるものも助けられない。
行政にも警察にも
そうした事案に対しての
明確なマニュアルは
存在しませんから
動きは鈍く
愛護団体の持つ
機動力や
ネットワークが唯一の
拠り所になる
ケースがほとんど。
なんの権限も
持たされない
愛護団体に出来るのは
胸襟を開き
人の心の
闇に向き合い
誠意を尽くして
時間をかけ
言葉をかけ
環境を整え
その人の決断を
待つことだけ。
それにどこまで
応えてくれるかどうかは
わからない。
動物が絡む様々な
虐待事件を目にする機会も
増える一方。
One can measure the greatness of a nation and its moral progress by the way it treats its animals. Cow protection to me is not mere protection of the cow. It means protection of all that lives and is helpless and weak in the world. The cow means the entire subhuman world.
国家の偉大さとその道徳的進歩をその動物を扱う方法で測ることができる。私の牛の保護は、単に牛の保護ではない。それは生きとしすべての命、世界で最も無力で弱いものの保護を意味する。牛は、人間ではない世界すべてを意味するのである。
人の心の有り様が
この世界や
社会を形作っています。
きちんとした
一人一人の
暮らしがあって初めて
犬猫達の暮らしが
様々な形で
守られていきます。
たとえ時間が
かかったとしても
人の心向きが変われば
確実に犬猫達の
未来の環境は
自ずと変化していく。
人と犬猫達が
穏やかに暮らす
社会の実現のために
出来ることを
出来るだけ
これからも変わらずに
やっていきたいと思います。
以前、愛護活動は
「趣味」だと
言っていた人がいて
なんだかひどく
軽薄なことを言うなと
思っていたけれど
今なら、その言葉の
真の意味がわかるような
気がしています。
ここのところ
ずっと
言葉にならない言葉が
頭の中をぐるぐると
回っていて
心がすっかり
押しつぶされて
しまいました。
だから
後先を考えず
ありのまま
吐き出して
みることにしました。
支離滅裂で
偉そうなことばかり。
そう思いながら
何度も書いては
読み返し
少しずつ
自分の
頭の中を
整理してます。
お見苦しくて
すみません。
ポンコツ万歳。