動物愛護を
訴える人の中には
牛肉や豚肉、鶏肉や魚など
動物性のものを
一切口にしない
という方もいます。
また、動物の皮や
被毛を使用した製品を
断罪し
そうした感情の
高まりから
犯罪的な
破壊活動に及ぶ団体も
出現しています。
愛護とは何か。
私は、自分を
愛護家だとは
思っていません。
犬猫の保護活動に
参加させて
いただいてはいますが
犬だけが
好きなわけでもないし
猫だけが
好きなわけでもありません。
動物だけが
好きなわけでも
子供だけが
好きなわけでもない。
巡り会う
命、全てに感謝している
ただ、それだけです。
それに私は
お肉も食べるし
革製品も使います。
こんなこと書いたら
ダメかもしれないけれど
ごめんなさいと
思いながら
お肉を食べることなんて
出来ない。
命をありがとう
大切に感謝して頂く。
とはいえ、心のどこかで
なんとも言えない
気持ちになったりもします。
ところで
犬や猫
身近な存在である
彼らを何故
私達が食べないか
考えた事は
あるでしょうか。
クジラを食べるな
イルカを食べるな
犬や猫を食べるな
そんな当たり前なことと
言われるかもしれませんが
以前こんな話を
聞いたことがあります。
私達は自分自身の
心をその動物に
見てしまうと
食欲が消え
食べられなく
なってしまうのだと。
心は食べ物にはならない
食べようとすると
吐き気がするから。
私達は自分が
食べようとする
生き物を前にした時
無意識に
その心を見ないように
そして、彼らもまた
こちらに
心を見せないようにしている
勝手かもしれないけれど
そんな気がするのです。
見ようと思えば
見えてしまう。
振り向くことのない彼らと
時々、チラッと目があって
ドキドキして
食べられなくなってしまう
そんな感覚があるのです。
生きるために
命をいただく。
どこまで
目を合わせたか
心を見たか
それが
その人自身の
愛護の範疇
なのかもしれない
そんな風に
思ったりするのです。
命をそうして
いただいたからには
その分まで
生命力豊かに
明るく生きて
彼らが
生まれながらに
そうしているように
誰かのために
生きましょう。
正直、こんなに
ひ弱で
どうしようもない人間が
彼らを護るなんて
おこがましいと
本当のところ
思っています。
彼らはいつだって
弱いふりをして
私達を鼓舞し
守り導いて
くれています。
彼らの
無償の愛情に
みんなが
気づくことが
出来たなら
愛護なんて言葉自体
なくなるのではないか
動物虐待や
愛誤に走ってしまうのは
その人自身の心が
すでになくなって
生きているけど
死んでいるのではないかと
思ったりもするのです。