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カリフォルニアの刑務所で、イエス・キリストが見つかった?

初めてこの話を聞いた時、あっけにとられました。

なぜなら、第一、イエス・キリストが行方不明になっていたなんて知らなかったからです。


一体、何のことなのか、理解するまでに少し時間がかかりました。


そして、イエス・キリストが刑務所で、それもカリフォルニアの刑務所で見つかったということ自体が、驚きでした。どうしてその刑務所に行き着いたのか分かりません。

それに、他の人たちはどうして、それがイエス・キリストだと分かったのでしょうか?

普通の市民でも、免許証の写真と全く同じ顔をしている人など、
ほとんどいないのに、どうしてイエス・キリストと判断できたのでしょう。

その刑務所では、多くの人たちが、イエス・キリストに会ったと主張しています。

誰かが、刑務所の裏庭にある木の幹に肖像が隠れているのを見つけ、
イエス・キリストだと言ったのです。

そしてなぜか皆が、その肖像はイエス・キリストにそっくりだと思い込んだのです。


なぜ彼らが、それを“知り合いのハーバートおじさん”ではなく、
イエス・キリストだと思ったのか、私には全く分かりません。


私だったら、“ハーバートおじさんに似ている”と思うでしょう。

これがニュースになったときの実際の見出しはこんな感じでした。


“パリス・ヒルトン、刑務所で神様を見つける”ご存じのとおり、
パリス・ヒルトンとは、「ヤバいわ」という言葉が大好きな彼女です。

そして私たちは、何が“ヤバい”のか分かっています。

私は個人的にパリス・ヒルトンを知っているわけではありませんが、
こういうお騒がせにかけては、彼女はプロのようなものです。

彼女は、自分が第一人者になって、騒がずにはいられないのでしょう。

私の推測にすぎませんが、
多分、彼女は刑務所における自分の状況をちょっと“ヤバすぎて”耐えられないと思ったのでしょう。


そこで、それほど“ヤバく”ない、別の何かを探していたのでしょう。

冷たいシャワーでも浴びて頭を冷やすべきですね。

刑務所で宗教に目覚めたという人に、驚いたりしてはいけないのですが、
やはり、いつも、びっくりしてしまいます。

刑務所に入った人は皆、ある種の“刑務所教”に入信するようです。誤解しないでください。


私は宗教心を持つことには大賛成です。


道楽にふけり、不道徳な生活を送ってきた人、セレブと呼ばれるような人たちが信仰心を持つことには、特に賛成です。

宗教を適度に生活に取り入れることは、誰を傷付けるものでもありません。

ただ、残念ながら、誤った信仰心は、なんの救いにもならないのです。

私が思うに、“刑務所教”に入信した人たちは、“収監されてしまう”までは、宗教について考えたことなどなかったと思います。


“収監されてしまう”と表現したのには、理由があります。


私は牧師として、受刑者たちに神の教えを諭すため、何度も刑務所を訪問しました。


そして、実際のところ、“収監されてしまった”人たちの中に、罪を犯した人はいないということを知っています。


皆、濡れ衣を着せられているのです。犯人に仕立てられて、“収監されてしまい”ました。

あるいは、刑務所に面会に訪れたことで、トラブルが起きた場合もあります。


そういう場合、その罪のない人がなぜ宗教を必要とするのか、私には分かりません。

私はずっと、宗教は罪深い人々のためのものだと思ってきました。


宗教を持つことには賛成ですが、
“刑務所教”に入信してしまう人がいるのはなぜなのでしょうか?


“喫茶店教”でもいいのではないでしょうか?

その方がずっとストレスも少ないし、おいしいコーヒーを飲むこともできます。


宗派によって、ドーナツやベーグルも付いてきます。食べ終わったら、家に帰ればいいのです。


喫茶店教の問題のひとつは、カプチーノにはお金を払わなければならないことです。


こんな問題なら、“ヤバく”ないですね。


当然ですが、この宗教の問題は、喫茶店によく行く人たちのほとんどは、
宗教はあまり重視していないということです。


喫茶店では大抵、「誰が誰と付き合うか」「誰が誰に振られたか」「今週、リハビリ施設に入るセレブは誰だろう」といった、生活に直接関連するような話題が上がります。

私が考えたのは、“リハビリ教”があればいいのではないか、ということです。

嫌な臭いがする古い刑務所より、リハビリ施設の方が宗教を見出せそうです。

実際、私なら、宗教探しの場所として、リハビリ施設を選ぶでしょう。

近頃のリハビリ施設は、最新の短期ステイ制度を導入しています。

こうした取り組みは、今後の成功が見込まれています。

本物のセレブなら(最近では、誰かそんな人はいたでしょうか?)、
1年もリハビリ施設で過ごさず、お気に入りのリハビリ施設を選んで、短期ステイで充実した時間を過ごすでしょう。


こうした施設が作られているという最近のトレンドをもっと前に知っていれば、
私も、セレブ向けのどこかのリハビリ施設に多額の投資をしていたでしょう。


こう考えるのは私だけだと思いますが、このようなリハビリ施設は、宗教に目覚めるのに最適の環境だと思います。

何と言っても、静かで穏やかで、自分自身と向き合うための時間がたくさんあります…
ついでに、日焼けする時間も。


当然、日光浴を楽しんでいる間に、日焼けし過ぎて肌を傷めてしまう可能性もありますけれど。


これは“ヤバい”ですよね!

ところで、私が、どんな人たちの間に宗教が浸透すればいいのにと思っているか、
分かりますか?


自分でも馬鹿げた考えだと思いますし、はなから反論されてしまうでしょうが、私は、政治家に信仰心を持ってほしいと願っています。


政治家の間にはびこる嘘つきウィルスを治癒するような、影響力の大きな宗教があればいいと思うのです。それも、ひとつの宗教でしょう。


イエス・キリストについて私たちが知っていることとも一致します。


イエス・キリストは、どちらかといえば芳しくないと思われている人たちと付き合うことに慣れっこでした。酒場の主人、売春婦、宗教指導者たちなどです。


政治家というのも大抵、芳しくない人たちが集まる場所の方がうまく溶け込めるタイプです。


“政治家が上院でイエス・キリストを発見”という新聞の見出しを想像してみて下さい。

ニュースですよね。

誰もそんなことは信じないでしょうし、
その政治家はリハビリ施設に入れるべきだと言われるでしょう。


イエス・キリストを見つけるということは、これほどの騒ぎになるわけですが、
キリストは、決して迷子になっていたわけではありません。

確かに、神を見つけた、という言い方をする人がいます。


そういう人たちは、迷っていたのは自分自身であり、
神が自分を見つけてくださったのだということを分かっていません。


正しくは「神様が私を見つけ出してくださった」と言うべきでしょう。

イエス・キリストも、そのことを明確に示しています。

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ福音書 19章10節欽定訳)。本当にイエス・キリストを“見つけた”とき、その人の性格や行動は根本から変わります。パリス・ヒルトンがどう変わるのか、見守りましょう。

ジェームズ L. スナイダー ― 受賞歴もある作家で、人気のコラムニスト。妻のマーサと米国フロリダ州オカラに暮らす。連絡先は、jamessnyder2@att.net.



自由へと身を委ねる――恩恵を受ける

今月初めのある日、私は自宅で窓のそばに座り、リンゴの木に咲いた花や、
遠くのブドウ園を眺めていました。

2階の廊下の窓際に机があるので、その前に座って、景色を見降ろしていたのです。

すると突然、後ろから鳥の羽ばたく音が聞こえました。

廊下の端の窓が開いていたので、そこからメキシコマシコが入って来たのです。

飛び回る様子を見ていると、鳥はやがて私の書斎へ飛んでいきました。
出口を探していたようですが、窓にぶつかってしまいました。

私は書斎に行って、鳥がわずか25センチほど先の窓のすき間に気付かず、
窓にぶつかっている様子を眺めました。

それから、私はゆっくり静かに近づき、鳥を外へ導いて助けてあげようと、
願いを込めて手を伸ばしました。

最初、鳥は私の手を拒み、つかまるまいと必死になって逃げました。

自分の行く手をさえぎる障害物を前にして、上下に飛び回りました。
私は落ち着いて、ゆっくりと鳥をつかまえるチャンスを待ちました。

優しく、しっかりと鳥をつかまえる機会をうかがっていたのです。

すると突然、鳥はバタバタと必死に飛び回るのをやめ、静かに私の指に止まりました。

まるで木の枝にとまるように自然な動きでした。

その瞬間、私と鳥は心が通じ合ったのです。

お互いを理解したということです。私はずっとつながっていたいと感じました。
でも、この心の絆こそ、私たちのつながりであり、鳥が私を信頼している証しだと思いました。

私はゆっくりと、開いた窓の方へ手を動かしました。

鳥は先ほどまで冷静さを失い、バタバタと飛び回っていましたが、落ち着きを取り戻しました。

すぐに目の前の窓のすき間に気づくと、感謝するかのように二度、明るくさえずり、
外の自由な世界へと飛び立っていきました。

私は、机に戻り、自分とあの小鳥の共通点について考えました。

私は、いつも、誰かから差し伸べられた救いの手を拒んでいます。

与えられる助言に耳を傾けず、周りの助けから必死に逃れようとしています。

その手は人間のものかもしれませんし、神のものかもしれません。

あるいは、さっきの鳥の羽根かもしれません。

いずれにせよ、私を自由な世界へ導く救いの手は、常にそこにあるのです。

ソノマ郡の美しい風景に癒やされながら、私は自分が神の手に包まれる様子を想像しました。

ちょうどあの鳥が、優雅に私の手に止まったように。

神に我が身を委ねると、緊張が解け、心配が薄れていくのを感じました。

その日から、私は、あの鳥のようにもがくことがなくなりました。


ただ、他の誰かが苦しんでいるのを見ているような気分になることがあります。


でも、自分にはどうすることもできません。

手を差し伸べることも、数センチ離れたところに開かれた窓があると伝えることもできないのです。

そして、苦しんでいるのは私自身でした。

私は拒んでいました。


でも、少しずつですが、あの鳥のように、拒むことをやめつつあります。
そして、神の愛に満ちた自由への道を受け入れ始めました。

MIMのエドワード・ミルズ氏は、ライフコーチであり、教師、講演家でもあります。
人々が、もっと幸せに、十分に、天賦の才を世界のために使えるよう、導いています。

ミルズ氏の月刊ネット新聞「エボルビング・タイムズ(進化する時代)」は、同氏のホームページ(http://www.edwardmills.com)、またはブログ(http://www.evolvingtimes.com)から購読できます。

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