一昨日まであんなに暑かったのに、今夜は涼しい風が吹いている。

 

国道なのに歩道もない狭いバス通りの路側帯を歩きながら、美桜は斜め掛けしたショルダーからスマホを取り出した。

周りが暗いせいか、いつもより画面の光がまぶしく感じる。

目をしばつかせながら、画面を確認するがラインの通知もなければ電話の着信もない。

不満気に鼻を鳴らして、スマホはそのままポケットに入れた。

 

ポケットは、ワンピースの腰下付近にある。

ハンカチ程度ならいいが重量のあるものを入れると、布が引っ張られシルエットが崩れる。

人通りのほとんどない夜の道、誰も見ていないというのに気になって、もう一度スマホを取り出した。

 

画面を見ると登録している料理アプリから新着レシピの通知が届いていた。

「秋の夜長を楽しむ、旬の酒の肴レシピ。きのこたっぷりピリ辛高野豆腐!」

 

作ってあげたら夫が喜びそうだ。そう思った自分に腹が立った。

あの浮気男。絶対に許さない。

 

夫はもう1年も前から浮気をしていた。

気づかなかったのは、夫を信じ切っていたからではない。

美桜が鈍感だったからでもない。

 

自分でも分かっている。美桜は夫を侮っていたのだ。

容姿端麗ではない。周りのみんなを笑わせる人気ものでもなく、無口なダンディでもない。

夫がもてるわけがない。夫を好きになる女の人なんているわけがない。

それに気の弱い夫は、浮気をする勇気なんてないだろう、と。

 

夫は夫で、美桜が気づかないのをいいことに、徐々に大胆な行動に出るようになっていた。

徹夜作業のふりをして夜を明かし、出張と偽って旅行にでかけた。

それでも美桜は気づかなかった。

 

結局、美桜が気づいたのは、浮気相手が懸命に主張してきていたからだ。

気づいたのではなく、気づかされたというのが正しい。

そして、あの夜、浮気相手はアマリリスの香りをまとって、美桜の家の呼び鈴を押した。

 

浮気相手が訪ねてきた時には、娘の手前もありその場はなんとか穏便に帰ってもらった。

夫にもアマリリス嬢が来たことは言わなかった。彼女も夫に何も言っていないようだ。

 

アマリリス嬢は、美桜と話したいと言って電話番号を置いて行った。

そして後日、決戦を果たしたのだ。

 

その日も彼女はアマリリスの香水をつけていた。

アマリリス嬢は美桜に夫とのラインのやり取りを見せてきた。

 

「今夜楽しかったね♡」

「うん。めちゃ楽しかった。もう会いたい。ちゅっちゅしたい♡」

「私も♡もう会いたい。ちゅちゅ♡」

「大好きやで♡」

「うん。大好き♡ もっかい会われへん? 今夜」

「無理やわ。終電なくなるやん」

「泊まったらいいやん」

「泊まりやと明日同じ服になるから」

「いつになったら、ずっと一緒におれるん」

「ごめん。もうちょっと待って」

「もうちょっと、ってもうずっと…」

「ごめん。離婚してくれって何回言うても嫁がうなずいてくれへんから。ちょっと策練るわ」

 

はああ? 離婚してくれなんて一言も言われてないで。

美桜は目を見開いた。

 

その表情をどう受け取ったのか、アマリリス嬢は頭を下げる。

「ごめんなさい。私たち愛し合っているんです。意地を張らずに別れてください」

 

テーブルに額をつけるアマリリス嬢を見ながら、美桜は告げる。

「そやけど。あいつ、別れてくれって一回も言うてないで。」

 

アマリリスが顔をあげる。怒り半分驚き半分の表情。美桜の言葉を信じていないようだ。

「そう言いたい気持ちも分かりますけど。すぐわかる嘘つかないでください」

 

夫とのラインは関西弁だったのに、標準語イントネーションで話す彼女を見ていて、

美桜はなんだか可笑しくなった。

 

その場でスマホを出してスピーカーにして、夫に電話をかける。

何か言いかけるアマリリス嬢に、指で口を押えて合図をした後、何気ないふりをして話す。

「もしもし。ちょっと駅まで迎えに来てくれへん」

「ああ。ええで。」

「あ、今ちょっと面倒くさいって思たやろ。別れたいって思たやろ」

「何言うてんねん。これくらいのことで別れたなるわけないやろ」

「あはは。私のこと愛してるもんね」

「わかってること、聞くなや。恥ずかしい」

 

長年連れ添った夫だ、このくらいの言葉を誘う話の流れは分かっている。

目の前で青くなるアマリリス嬢を見ながら、美桜はそのまま夫の電話を切った。

 

後味は悪かったが、アマリリス嬢は夫に愛想を尽かし別れてくれた。

 

だが、それだけでは終わらなかった。

夫は新しい浮気相手を探して来たようだ。

アマリリス嬢とのように旅行に行ったり外泊を重ねたりという関係ではないようだが、

二人は終電まで会社近くのホテルで会っている。

 

それを、わざわざ美桜に教えて来たのは、あのアマリリス嬢。

探偵さながら、ホテルに出入りする二人の写真を持って、今日会いに来た。

 

アマリリス嬢は、目の前で夫にラインを送る。

「この写真を奥様にお見せしています」

 

その帰り道。やっと秋の気配を見せた夜風に吹かれながら、美桜は歩く。

スマホに夫からの連絡を待ちながら。