3月14日
月曜日。
震災から3日が経ちました。
テレビでは避難所や津波襲来の映像が永遠と放映されていました。
伯母の安否はわからないままですが、仕事はしなければなりません。
午前中、伯母の息子家族の無事が確認されたと、Twitterで繋がった遠い親戚から電話がありました。
生きていると知った時の感情は、言葉にできません。
電話口で出てくる言葉は
「良かった、良かった。本当に良かった。」
それだけでした。
一方、伯母の安否は依然分かりません。
ひとつの手掛かりとしては、
テレビで、気仙沼の避難所の掲示板に伯母の行方を探す張り紙を見た
という私の父親の証言だけでした。
でも、その張り紙の動画の中に、安否に繋がる何らかの情報があるかもしれないと思い、
ニュースの映像をyoutubeで検索し、片っ端から見て探しました。
貼り紙は、赤いペンで伯母とおばあちゃんの名前が書いてあるものでした。
これを見つけた私の父親も、必死で伯母を探していたのでしょう。
後々、その貼り紙は伯父伯母が経営している会社の従業員が書いてくれたものだという事がわかりました。
この頃、気仙沼では自衛隊の衛星電話が使えるようになるなど、通信手段が復旧してきました。
伯母の息子夫婦の無事も、本人からの電話によるものでした。
携帯電話の基地局は停電により機能しなくなり、また、皆、携帯電話の充電も切れてしまっていました。
仙台市街地では、停電の復旧が早かった、中心部にある商店街の電源や、役所の電源を開放し、
多くの人が充電に訪れていました。
この日から、東京電力管内では計画停電が始まりました。
原子力発電所停止による電力不足のためです。
地域ごとにグループ分けされ、グループごとに3時間の停電が実施されました。
街中では、余震や停電への不安から、食料や日用品の買い占めが行われるようになりました。
私は仕事後、何か少し買おうかと思い、食料も売っている近くのドラックストアに入ってみました。
食品売り場の5分の1ほどを占めているカップラーメンが全て売り切れ。
米も、卵も、牛乳も、豆腐も、納豆も、麺類も、ポテトチップスもない。
ティッシュ、トイレットペーパー、ウェットティッシュ、マスク、オムツまでもない。
唖然としました。
私は一人暮らしなので、家にあるもので間に合うと思い、特に何も買わずに帰りました。
ティッシュやトイレットペーパーなんて,なくても死にやしない。
正直、私は、買占めなんてどうでもよかったです。
それよりも、どうか、どうか、伯母が無事でいてほしい。
それだけを祈っていました。
ここまで探しても伯母の安否は確認できませんでした。
後は、本人から連絡が来るのを待つしかない。
安否確認をしている時間というものは、
大切な人が死んでしまったかもしれない、その中でも、生きていると信じて探し続ける。
希望と絶望が入り混じる、辛い時間でした。








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