調律師「弾いてみられますか」


 m「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」


 年に1度のピアノ (エリーゼ) の調律日。

 調律が終わると、調律師さんはいつもこの言葉をかけてくださる。多分私の答えが同じだということを、ご存知ながら。


 私にとって、とても誇りでそしてとても残酷なこの言葉。


 ピアノが弾けなくなってもうすぐ4年。

 ジストニアはピアノを辞めてからも残念ながら症状は進み、バイオリンも諦め、ギターも諦め、そしてウクレレにも別れを告げた。

 

 今は髪を洗ったり、顔を洗うためにお湯を掬ったり、化粧水をつけたりといった作業さえ時間がかかる。あまり関係のないバレエでさえ、指先の表現に支障が出ることもある。

 えっと。もう少し分かりやすく言うと、

 基本私の右手の小指と薬指は曲がった状態。

 顔を洗う時は、普通は指は水を掬いやすいように軽く曲がった状態になって、特に意識しなくてもその形をキープできるけど、

 それが私の場合はひと救い毎に『指をその形にするよ』って、頭で考えて指令を出す感じ。そしたら2~3秒かかってその形になる感じ。

 急ごうとすると力が入って拘縮が酷くなってうまく行かない。『力を抜いて、リラックスして』って言い聞かせる必要がある。

 だから、時間をかければ指は動くけど、こんな状態では楽器は無理なんだよね。

 

 「弾いてみられるますか」という言葉は、身を切られるように辛い。

 でもそれでも彼が私にこの言葉をかけ続けになるのは、私がピアノを愛する気持ちが昔と何も変わっていないことを信じておられるからなのだろう。

 ピアノを通じての、音楽への思いに関する彼との繋がりは深い。


 ピアノを愛し、ピアノを毎日一生懸命練習していたあなたのことを、僕はちゃんと覚えていますよ


 あの言葉は、こういうメッセージだと受け止めている。


 今は自宅には置いてないので、エリーゼに会えるのは調律の時ぐらい。エリーゼは幸いこの場所を訪れるたくさんの方に弾いてもらえているらしい。


 私はいつになったら、この彼の言葉を、心からの、穏やかな、平和な、静かな気持ちで、聞くことができるのだろうか。


 エリーゼ、調律して貰えて嬉しそうだったな照れ



 あ。それでも包丁が握れて、お弁当が作れるから、だいじょぶだよ(^^)。ジストニアでは死にゃーせんし(^^)v。