久しぶりです。
もうアメブロを真剣に書かなくなってからどれくらい経つのでしょうか?今年愛でたくもなく30歳になるまるくです。
今日3月11日は忘れもしない…東北地方太平洋沖地震、そう 東日本大震災が発生した日です。あの日は仕事をしていました。14時30分から会社の休憩室で休み、国会中継を観ながら14時45分すぎになったので休憩が終わり戻ろうとしたら…
あの恐怖のアラームがテレビから聞こえ、
東北地方で地震が遭ったことに気がつきました。このときは何もしませんでしたが、この日の2日前から地震が何回も起きていた事は知っていたので、そのうちまた起きるとは思っていました。ただ、予想は遥かに超えていました。
何しもしないままテレビに釘付けのまるく、数分後臨時ニュースに変わり仙台や東京が激しく揺れている生の映像を観る。このとき、名古屋でも揺れが始まった。過去の経験から東北で起きた地震は名古屋だとそんなに揺れないから大丈夫なんて思っていた。
ところが不気味な揺れがだんだんと激しくなり…名古屋もかなり揺れた。時間にして2分〰3分。人によっては5分位揺れを体感してクラクラ立ち眩みした人も居た。その直後会社全フロアに放送が入り、全てのラインがストップした。
一時待機を余儀なくされたまるくは、刻一刻と事態が未曾有と成り行く状況をテレビで見守るなか、どうしても家族が心配になったので電話をして無事を確認できた。今思えばよく繋がったと思えた。地震から10分くらい経った事。社員が作業再開と待つなかでこそっとアメブロを更新した事を思い出した。当時SNSでお世話になった関東や東北地方のみんなが心配だったので…
15時15分に作業は復旧したが、やはり東北が気になる。作業が落ち着いた時を見計らって遠目からテレビを観る…そこには海からの大津波で車や建物が次々と飲み込まれてゆく映像が生中継されていて、言葉を失う…
次の休憩は17時30分。地震の規模が上方修正、津波が各地を襲うシーンが何回も中継され、死者数も増えて行き、東京では帰宅困難者が多数いるとのニュースがひっきりなしに流れるー
日本は終った…とも思えた瞬間だった
22時に仕事が終ったが、会社近くを流れる川が荒れていた!そう津波がここまで来ていたのだ。水位や水流はいつもと全く違い、普段にはない異臭もした。
色々な事に怯えながら無事に帰宅し、改めて携帯を見て当時やっていたSNSを確認してみんなが無事をだったことを知れてホッとした。家族全員とも無事だった。
しかし眠れない…
気がつけば翌日も仕事なのにずっとテレビを観ていた。各地で余震とも思えない規模の大きな地震が起きる中、名古屋も大きな揺れが来るのでは?という恐怖にもなった数日間でもあった。
その日は翌日6時00分ごろまで寝られず、数時間寝てからまた仕事へ行った。
この間…福島の原発事故報道、津波による被害の甚大さ、各地で孤立している人達を救助する姿を見て 希望と絶望を同時に味わう複雑な心境にもなった。
地震発生から2〰3日が経った
大災害→食料や電気、水がない→コンビニやスーパーでは買い占めが起きていた。そして、原発事故を受けて電力不足となる事から節電をするようにとのニュースが放送された。
もう、何が何だか解らない、どうすれば良いのか分からない状況だった当時の僕
お金があまり無い中で、カップ麺やら米と水とティッシュなどをかばんに詰め込める範囲で買ったことを覚えている
今思えば正しかったのか?
その答えは誰も教えてはくれなかった。
地震から1週間位経ったある日、やっと心にゆとりが出来てきた時に芽生えたのは、東北の皆さんが早く元の生活に戻れるように!との思いで送った義援金だ。
少ない金額ではあったが、気持ち表現出来たと思います。この時から、まるくは東北を応援しよう!と決意できた。
少しずつ元の暮らしが戻りつつある東日本、震災発生から1ヶ月を前にした4月頭に都内へ行く事が出来た。色々と街を歩いてみたら…エスカレーターが止まっていたり、 繁華街の電気が点いていなかったり、歩道があの大きな揺れで盛り上がっていたり、影響をまざまざと感じ取れた。
翌5月には千葉の幕張に行ったが、マリンスタジアムや幕張メッセ周辺が液状化現象により至るところで建物や道路が歪んでいたり、亀裂や陥没している箇所があったりで大変だった。
この年の8月には東北地方へ行く計画を立てていたが、東北に住む周りの人の反対やこの時多くあった遠方からボランティアに来た人が現地の人からは見たら偽善者だ!と言う誤報なのか勘違いなのか、真のボランティアの人と本当は震災を利用して上手い話をしようとする人が多数あったとの事で旅行は見合わせた。
時は流れー
翌年、3月10日〰12日まで休みが取れたので、「東北を救いたい!」との気持ちで震災から1年の節目でもあったので東北へ向かう決心をする。311前日には東京で防災セミナーがあったのでそれにも参加をして、東北の当時の現状を知った上で向かうことにした。そして、向かった先が…
福島県のいわき市だ
鈍行列車を乗り継いで、常磐線の広野まで行った。当時はここまでしか行けず、本当ならその先の双葉町まで行って福島原発の人達に一喝してやりたい気持ちがあった。まぁ管外の人間ですけども(笑) あと放射能の事は少しは考えてましたが…汗
常磐線の車内から太平洋を眺める事が出来た。2012年3月11日震災から1年のこの日、茨城と福島は晴れたり曇ったりだったが風もなく海は本当に穏やかて静かだった。
初めて乗る常磐線、楽しみもあったが現実を生で知る事も大事と言う思いもあった。いわきを過ぎた辺りから風景は変わった!海沿いの工場は草が繁っていて閉鎖していて、建物の骨組みだけが残されたコンビニ跡地、家が建ってたであろう土台だけが何軒もあって、畑や田んぼは水に浸かったまま、ある集落は更地状態。お墓も倒れたままだったり、上の墓石だけが無い物もあった。
テレビである程度情報は知っていたが、改めて生で知る事で津波の被害の恐ろしさを肌で感じられた。
僕はある場所へ行った!
アクアマリンふくしまだ
この水族園は、地震と津波によって飼育されていたほとんどの動物が死滅してしまい休業を余儀なくされた。
しかし、被害の少なかった水族館やこの事を知った各地の水族館らが、動物を譲渡するとのお話を受けたのと、被害の大きかった建物の改修の目処がたち、この年の7月には営業再開することができた。
震災から数ヶ月で再建を果たしたこの水族園を訪れて隅々まで見学していきました。と、ここで14時46分を迎える事となります。
アクアマリンふくしまには展望台があります。太平洋の方角を向いて1分の黙祷を捧げました。
この1分に僕は色々な思いが走馬灯の如く駆け抜けました!
震災で亡くなられた方の思い、地震や津波で避難を余儀なくされた方の思い、そして…やっと自分がこうして被災地へ足を運び復興を支援できた感謝と歓喜の思いで、自然とまるくの目から大粒の涙が溢れたのです!
自分では現地の皆様の辛かった苦しかった思い全ては汲み取る事は出来ないかも知れないけれど、少しだけ報われたと思えた、ちょうど震災から1年のこの日出来事でした。
ありがとう!東北
この気持ちは5年経った今でも忘れてはいません。この年の8月には東北一周一人旅を達成、岩手の小岩井農場や宮城の松島と七夕祭りを見に行き、現地の食べ物やお土産を買いました。
更に2013年の3月11日にもいわき市、同じアクアマリンふくしまを見学し黙祷を捧げ、お土産を買ったりソースカツ丼を堪能致しました ✌
最高に美味しかった
そして、記憶に新しい…昨年8月には岩手の沿岸の街、山田町を1日かけて堪能することができました!!!
山田湾べーカリー、海の幸、お土産すべてが丹精をこめたものでした
たとえ他人からすれば 小さな事かもしれませんが、僕にとっては大きな一歩になったと思います。この先も復興は続いていきます。失ったものを取り戻す事は出来ない物もありますが、僕は可能な限り東北を応援してゆく決意であります。
それが今日だけではなく、東北の事をふと思える日が1日でも多く続き、また元の暮らしが少しでも戻って来ることを願いつつ、震災から5年の今日を迎える まるくの思いを長々とアメブロに書かせていただきました。
どうか、ここまで読んで下さった皆様の心のどこかに東北の事がある事を願います。
東日本大震災で被害に遭われた皆様に心からお見舞い申し上げます。