『 吉良仁吉の墓所に行って来ました 』

          三洲吉良     吉良仁吉墓所

          【   源   徳   寺   】

       義理と人情         任侠吉良仁吉の墓

    本名  【  太田仁吉  】 身長180㎝体重 96キロ
   相撲が強く草相撲の大関であったと聞きつたえられている、その相撲に勝ったため喧嘩となり『寺津の間之助』の世話になった、これが任侠になった第一歩であった、後、間之助の紹介で『 清水の次郎長』に三年厄介となり兄弟分の盃を交わすこととなった。

   慶応2年 ( 1866 ) 「伊勢神戸の長吉」が 「 桑名の穴太徳」に荒神山の縄張りを奪われ「仁吉」の助勢を求めた、しかし3ケ月前に嫁となった「キク」は「穴太徳」の養女である、義理の為に女房を離縁し「長吉」に助勢することになった。

    清水一家の中、「大政」「小政」をはじめ18人衆が助勢、24人が寺津港より荒神山に向けて出船した、喧嘩は仁吉方の勝利となったが「仁吉」「法印大五郎」「幸太郎」は戦死した、時に慶応2年4月8日仁吉行年28才、若さのさかりであった。
  
   墓は仁吉一周忌、慶応3年に「清水の次郎長」が
「仁吉の任侠」を忍んで建立したものです。

            
        { おれも行きたや仁吉のように
                            義理と人情のこの世界 }

   と人生劇場で唄われた義理と人情とは、江戸時代中国より渡った宋学が官学となり武士の間で義理が重んじられ一方民族では、生活の知恵として日本人独自の人情が生まれ、義理と人情という合理主義精神が培われた。

  
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吉良仁吉の墓所
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吉良仁吉の位牌    
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