「華政」で学ぶ史実   永昌大君の死、原因となった「七庶の獄」事件    | Marcallのイケイケ韓国ブログ

Marcallのイケイケ韓国ブログ

子供の受験勉強と一緒に韓国語を勉強し始め、娘息子は父母に。私もハルモニ~♡
 根底に流れる〝史実”を知って、 もっと楽しく『韓国史劇』を観ませんか?
歴史大好き ♡ Marcall の 『アジュンマ目線で歴史探究』  どうぞ皆様ご一緒に♪

         5月7日のブログの続き。。。やっと & です(苦笑)

             韓国MBCで放送中の ドラマ「華政」 から

            
            

            (画像出元:ドラマ「華政」公式サイトより)

         まだ8歳(当時の歳で9歳)と言う、幼い「永昌大君の悲しい死」

            その≪経緯から、悲惨な最期まで≫ しょぼぼーんDASH! を

               詳しく調べてみたくなりました はてなマークとかげ


              今回は ≪史実追跡の旅バスDASH! へ 

                  どうぞ、お付き合いくださいませ❤



          注意文責はMarcallに有り。確実なものではありません。

              「転記転載はどうぞご遠慮ください」 禁止 &

          (間違い等、お気づきの点がありましたらどうぞお知らせくださいませ

           楽しいコメントなども、お気軽にお寄せ頂けると嬉しいで~すラブラブ!



               。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


               本 史実 ≪永昌大君≫の生涯

          1606年(宣祖39)陰3月6日生~

                 1614年(光海6)陰2月10日没 (享年9歳)


         朝鮮王朝第14代王宣祖の14人の息子の内、唯一の嫡子(正室から

         生まれた息子)として、父宣祖55歳、母(継妃:仁穆大妃)23歳、

         そして既に世子へ冊封されていた光海君は32歳でした。

         宣祖はやっと生まれた嫡子である大君を寵愛し、ずっと疎ましく思っ

         ていた光海君の世子の座を大君にと思うようになり、大君を支持する

         ≪小北派≫と共に世子の座の挿げ替えを目論みますが 。。。

         1608年(宣祖41)陰2月1日 宣祖が急死しその夢は潰えてしまう。


         大君があまりにも幼いため、仁穆王后は「世子光海君に王位継承」承認


            光海君 ≪朝鮮王朝15代王即位≫となります。


                。。。 そして 。。。


         1613年(光海君5年:癸丑年) 「七庶の獄」と言う事件が起こる。

              

          ≪聞慶銀商襲撃事件:七名の庶子達が、東來(トンネ)の倭館から

           漢陽へ運搬中の銀貨を奪取した事件≫


         これは実際には庶孼(ソウォル:庶子とその子孫)出身の者達七人が

         自分たちの〝嫡庶差別を廃止して欲しい”との上訴が拒否された事

         に不満を抱き、銀商人を襲撃し銀数百両を強奪する事件ですが。。。


               イ・イチョム

         この事件を利用して。。。大北派の李爾瞻(イ・イチョム)等は、

         彼らに 「永昌大君を擁立して逆謀を起した。そしてその首謀者が

         仁穆大妃の父金悌男(キム・ジェナム)であり、大妃も周知だ」 と

         虚偽の証言をさせ、これにより金悌男は賜死となり息子三人も処刑、

         可哀相に罪のない幼い大君も廃庶人とされ、江華島に流刑とされま

         した。

               永昌大君

         これにより、永昌大君を取り囲む勢力の殆どが粛清され、光海君

         支持派である「大北派」が政権を掌握すること 。。。

                。。。 この一連の事件を 

                 爆弾『癸丑獄事:계축옥사ケチュㇰオㇰサ』と言います


         そして 。。。 1614年陰2月10日

         イ・イチョム一派が 江華府使であった鄭沆(チョン・ハン)を使い

         永昌大君の部屋に火を炊かし大君を「蒸殺」した。


        本 光海君日記(正草本) 1614年(光海君6)陰2月10日 二番目の記事

              江華府使鄭沆が永昌大君(李㼁)を殺害した


           そして・・・その悲惨な死に至るまでの事も書かれています


           江華府使鄭沆は、永昌大君の圍籬周辺から役人たちを退去させ、

               ( 圍籬安置・・・周囲を高い垣根で取り囲み外部との

                      接触を一切断たれる重い処分    )

           食事も与えず、寝所に火を炊き、異常に温められた床に・・・ガーン!!汗

              

 
           横になる事も出来ず、窓の格子を掴んで立ったまま夜遅くまで

           泣き叫んでいたがうわぁぁん、力尽きて亡くなった。


           大君は流配先でも、幼いながらも母を悲しませないようにその辛さ

           を話さなかったそうです。この不憫で痛ましい最期に人々は皆悲しい

           想いをもった。 ・・・と言う事です (悲しいですよね~~涙


                 。。。。。。。。。。。。。


          母である仁穆大妃が、この幼い大君の死の真相を知った時は

          おそらく このドラマの様に ≪慟哭泣≫ したに違いないですよね

              
  

             本当に痛ましい ≪永昌大君の最期ドンッしょぼん≫ でした。


           (永昌大君と仁穆大妃に関しての動画お借りしました 感謝感謝

            私の大好きなテレビ番組  韓国KBS1放送の「그 날(その日)」より


       
          
             (一連の経緯が、ご覧いただくとよく解ると思いますので

                   訳は省略いたしますね~ あせあせ  )


            この中にも出てきますが、悲しみに暮れる母(仁穆大妃)は ガクリ 

              。。次は 母「仁穆大妃」についてまとめてみます 本サーチ