5月7日のブログの続き。。。やっと です(苦笑)
韓国MBCで放送中の ドラマ「華政」 から
(画像出元:ドラマ「華政」公式サイトより)
まだ8歳(当時の歳で9歳)と言う、幼い「永昌大君の悲しい死」
その≪経緯から、悲惨な最期まで≫ を
詳しく調べてみたくなりました
今回は ≪史実追跡の旅≫ へ
どうぞ、お付き合いくださいませ
文責はMarcallに有り。確実なものではありません。
「転記転載はどうぞご遠慮ください」
(間違い等、お気づきの点がありましたらどうぞお知らせくださいませ
楽しいコメントなども、お気軽にお寄せ頂けると嬉しいで~す)
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史実 ≪永昌大君≫の生涯
1606年(宣祖39)陰3月6日生~
1614年(光海6)陰2月10日没 (享年9歳)
朝鮮王朝第14代王宣祖の14人の息子の内、唯一の嫡子(正室から
生まれた息子)として、父宣祖55歳、母(継妃:仁穆大妃)23歳、
そして既に世子へ冊封されていた光海君は32歳でした。
宣祖はやっと生まれた嫡子である大君を寵愛し、ずっと疎ましく思っ
ていた光海君の世子の座を大君にと思うようになり、大君を支持する
≪小北派≫と共に世子の座の挿げ替えを目論みますが 。。。
1608年(宣祖41)陰2月1日 宣祖が急死しその夢は潰えてしまう。
大君があまりにも幼いため、仁穆王后は「世子光海君に王位継承」承認
光海君 ≪朝鮮王朝15代王即位≫となります。
。。。 そして 。。。
1613年(光海君5年:癸丑年) 「七庶の獄」と言う事件が起こる。
≪聞慶銀商襲撃事件:七名の庶子達が、東來(トンネ)の倭館から
漢陽へ運搬中の銀貨を奪取した事件≫
これは実際には庶孼(ソウォル:庶子とその子孫)出身の者達七人が
自分たちの〝嫡庶差別を廃止して欲しい”との上訴が拒否された事
に不満を抱き、銀商人を襲撃し銀数百両を強奪する事件ですが。。。
イ・イチョム
この事件を利用して。。。大北派の李爾瞻(イ・イチョム)等は、
彼らに 「永昌大君を擁立して逆謀を起した。そしてその首謀者が
仁穆大妃の父金悌男(キム・ジェナム)であり、大妃も周知だ」 と
虚偽の証言をさせ、これにより金悌男は賜死となり息子三人も処刑、
可哀相に罪のない幼い大君も廃庶人とされ、江華島に流刑とされま
した。
永昌大君
これにより、永昌大君を取り囲む勢力の殆どが粛清され、光海君
支持派である「大北派」が政権を掌握すること 。。。
。。。 この一連の事件を
『癸丑獄事:계축옥사ケチュㇰオㇰサ』と言います
そして 。。。 1614年陰2月10日
イ・イチョム一派が 江華府使であった鄭沆(チョン・ハン)を使い
永昌大君の部屋に火を炊かし大君を「蒸殺」した。
光海君日記(正草本) 1614年(光海君6)陰2月10日 二番目の記事
江華府使鄭沆が永昌大君(李㼁)を殺害した
そして・・・その悲惨な死に至るまでの事も書かれています
江華府使鄭沆は、永昌大君の圍籬周辺から役人たちを退去させ、
( 圍籬安置・・・周囲を高い垣根で取り囲み外部との
接触を一切断たれる重い処分 )
食事も与えず、寝所に火を炊き、異常に温められた床に・・・
横になる事も出来ず、窓の格子を掴んで立ったまま夜遅くまで
泣き叫んでいたが、力尽きて亡くなった。
大君は流配先でも、幼いながらも母を悲しませないようにその辛さ
を話さなかったそうです。この不憫で痛ましい最期に人々は皆悲しい
想いをもった。 ・・・と言う事です (悲しいですよね~~)
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母である仁穆大妃が、この幼い大君の死の真相を知った時は
おそらく このドラマの様に ≪慟哭≫ したに違いないですよね
本当に痛ましい ≪永昌大君の最期≫ でした。
(永昌大君と仁穆大妃に関しての動画お借りしました )
私の大好きな番組 韓国KBS1放送の「그 날(その日)」より
(一連の経緯が、ご覧いただくとよく解ると思いますので
訳は省略いたしますね~ )
この中にも出てきますが、悲しみに暮れる母(仁穆大妃)は
。。次は 母「仁穆大妃」についてまとめてみます