こんにちは٩(^‿^)۶
感覚優位な私が
感覚を許して
スピリチュアルな道へ進み、リーディングを人にしていくまでの道のりを綴っていきたいと思います。
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とはいえ、一応、医療従事者としてパート勤めをしてきてクビになった経験はないし、イジメにあった事もないので、それないり順応できてきたので、最低限は理屈を理解できてるし、常識行動も理解はしているからだと思ってる。
そんな私、昔から
思考よりも体感でわかってしまう
そんなタイプでした。
これは全てにおいてではないですよ
それから他人の事がわかるわけでもないですし。
ただ自分の事に関しては
こんな風になりたい!と願った時に
そこに太鼓判が押されてるかどうかの違いがわかるんです。
(これは意図してできるわけではないです)
太鼓判が押されてない場合はその願いに不安が乗っかっているということ。
でも、やっぱり、そうは言え そんなループにはまってしまう感じで。
そうなるはずがないたくさんの理由が思い浮かんできて、そこには後からなかなか太鼓判は押されないのです(経験上そうなのです)
私は人生の中でたくさんの事を、この太鼓判が押されないのを体感でわかってるのにいつか押してもらえるだろうと願って努力してきた事が多かったように思います。(努力や根性が、キライなのにね)
でも、その太鼓判がある事に気付けたのはここ数年前の話で、
で、その太鼓判の存在をふに落とせたのが実は今さっきなんだよね
太鼓判が押されてる事項に関しては、全てそうなってきたこと!
そして、家族に対しても、少しずつその太鼓判が押されてるかどうかが体感でわかるようになってきています。
すでにそうなることがすでに決まっているのだという事なんでしょうかね。
だからかな、私は昔から、努力や根性って言葉が大嫌いでした。
その理由はきっと、
太鼓判を感じないのに
それでも努力してきた事はたいがい掴めないで終わっているから
なんじゃないかなと思ったから。
つまり、最初の時点で太鼓判がないものは、そうならないに等しいのです。ただ努力を経験してみたいから努力してきたって事が
36年の私の人生をかけて統計がでました
(結果叶わなくても、努力した経験は全て人生の肥やしになってるから、プラスだったとは思います)
自分の感情に素直になる訓練をしていたら、感覚というものが体感できるようになって、そしたらそれに気づいた。というわけです。
この感覚は大切にしていきたいです。