小人閒居して不善をなす | mappyの憂国

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小人閒居して不善をなす

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「小人閒居して不善を為す」
という言葉があります。
四書の『大学』にある有名な言葉です。
この言葉を、「小人は暇を持て余すとろくな事をしない」という意味に用いる人がいますが、正しくは違います。
なぜなら「閑居」ではなく、「閒居」という言葉が使われているからです。

「閒(かん)」という字は、「門(もんがまえ)」の中に「月」が書かれている字です。
この字は門が少し開いて、そこから月の光が差し込んでいる様子を表します。
門の外と内で、互いに同じ月を見ているのだけれど、両者は門で物理的、時間的に隔たっている。
同じ月を見上げているということは、同じ志を持っています。
けれど、門で隔てられているわけです。
それが「閒」です。

「閑居(かんきょ)」なら、ただ「暇でいる」という意味です。
「閒居(かんきょ)」なら、「同じ目的を持った二者が、物理的精神的時間的に離れた状態になっている」様子です。

そして小人は、たとえ同じ志を持った同志であっても、相手の人がその場にいないと不善をなす。
つまり、不誠実な態度や言動をとる。
もっと言ったら、悪口を言い始める。
そういう不誠実な態度のことを『大学』は、「小人閒居して不善をなす」と言っているのです。








原文は次のようになっています。

 
所謂誠其意者、毋自欺也。
 如悪悪臭、如好好色。
 此之謂自謙。
 故君子必慎其独也
 小人閒居為不善。
 無所不至。
 見君子而后厭然、
 覆其不善而著其善。
 人之視己、如見其肺肝然、
 則何益矣。
 此謂誠於中形於外。
 故君子必慎其独也。


おもいきった現代語に意訳すると次のようになります。

 
誠という字の意味は、自らを欺(あざむ)かないことです。
 悪臭を憎むように、色ごとを好むように、
 いつも慎み深くすることです。
 ですから君子は、独りのときでも必ず慎み深くします。

 徳のない小人は、他人の目がなくなると同志に対して不善をなします。
 人間が至らないからです。
 その不善がバレないよう、自らの不善を隠して善人のような素振りをします。

 君子であっても、これを見抜くのは、
 その人の肺や肝臓を見ようとするのと同じで容易なことではありません。
 行おうとしてもできることではありません。
 見ようとしたところで、何の益もありません。できないことだからです。

 ただひとついえることがあります。
 心の誠は、必ずその人の外見や姿に現れてきます。
 だからこそ君子は、たとえ独りであっても、自らを深く慎むのです。


いまではすっかり慣用句のようにさえなっている「小人閑居して不善を為す」というのは、
「小人は暇を持て余すとロクなことをしない」といっているのではなくて、
「小人は同志に対してさえも、その人がいないと必ず悪口を言い始める」と言っています。

心に誠がないから、慎むことができないのです。
簡単に言ったら、同じ会社や組織の同志であっても、
AさんがいなければAさんの悪口を言う。
Bさんがいなければ、Bさんの悪口を言う。

同志の悪口を言ったからといって、自分が偉くなるわけでもないのだけれど、自己抑制が働かないから同志であってもその場にいない人の悪口を言いたがるのです。
これを儒教の『大学』は、
「小人閒居して不善を為す」と言っています。

おもしろいもので営業成績の悪い営業店に行くと、そこでは本社の上司に対する不平不満ばかりが聞こえてきます。
まるで、その上司がいるから営業所の成績があがらないと言わぬばかりです。
ところがその上司が臨店すると、全員ニコニコ顔となってその上司を迎え、その瞬間からまるで人が違ったように素直で善良で、上司を心から尊敬しているかのような素振りに早変わりします。

『大学』は、そのような人を称して「小人」だと言っているわけですが、後半も面白くなります。
相手が小人で陰口をたたいているかどうかは、本当のところは相手の肺や肝臓を見ようとするのと同じで、君子であっても見抜くのは困難だというのです。
けれどもひとついえることは、


「心の誠は、
 必ずその人の
 外見や姿に
 現れる」


というのです。

なるほど、どんなにお金持ちか頭が良いのかわかりませんが、テレビに出てくる知的なお話をされるコメンテーターさんたちの多くが、お顔が歪んでいる。
ひとことでいえば人相があまりよろしくない。
歳を重ねれば、自然とその人となりが外見に現れてくるものです。


ですから私はいつも、
「この人が100人いたら、世の中はどう変わる?」と自問します。
同様に、自分が百人いたら、千人いたら世の中は良い方向にむかえるようになれるかと自問します。
明らかに良くない方向に向かうなら、自分の活動は間違っていることになるからです。

その場に居ない人への誠実。
これは、とてもたいせつなことだと思います。
いないからこそ悪口を言ってはならないし、よりいっそう、意識して慎み深くならなければならない。
それができるのが、本来、男であり、大人とされてきました。
かつての日本人にそれができたのは、肚がきまっていたからです。


最近では、人間は理性と感情で動くとか、右脳と左脳によって考えるとか言われます。
けれどもともと日本人は、肉体の他に魂の存在を明確に「ある」ものとしていたのです。
だから、
「乞食をしたってこの魂は汚さない」とか
「死んで靖國神社で会おう」とか、ごく普通に思っていたし、常識だったし、現実だったのです。

右脳や左脳、あるいは理性と感情よりも、もっと深い所で、人間には、その本体としての魂がある。
そしてその魂を汚したくないから、その人のいないところでは、意識して下手なことは言わず慎む。
必要があるなら、直接本人に話す。
そしてそれが不服なら、腹を切る。


これが武士が学んだ四書五経の、ほんのさわりの一部です。
私などまだまだ、ほんとうに修行不足を感じます。


さて、現代支那では、この「閒」という字は失われて簡体字の「间」になっています。
「间」は、旧字(真字)なら、「間」です。
ですから「小人閑居して不善をなす」は、「小人間居して不善をなす」となります。
仕事と仕事の合間の暇な時間対になると良からぬことをすると、ちょっとひどい解釈になっているようですが、彼らの国では、それはまさに常識です。


また現代日本でも「閒」という字は当用漢字から外れていますから「閑居」と書かれます。
そして「閑」は、暇と同じ意味の漢字ですから、「小人は暇を持て余すと不善をなす」と違う意味に使われたりしています。
けれど考えてみれば、戦後の日本人は暇をもてあますと、パチンコに走ります。
たしかにロクなことをしない。



けれどもすくなくとも、江戸時代の武士や、明治の元勲たちが学んだ「小人閒居為不善」は、そういう意味ではありません。
「その人がいないところで同志の悪口を言い出すのは、小人である」と学んだのです。

相手がその場にいようがいまいが、心に誠を持ち、人の悪口や批判を言わず、自ら慎しむ。
それが大事と教えられてきたのです。
そしてそれがあるからこそ、武士は信頼されたのです。


人の噂をすることは、それはそれであって良いことです。
人は噂話が好きなのです。
とりわけ芸能人の噂をはじめとして、自分が何の影響力も行使できない人の話をするのは、人々のお楽しみです。
ベッキーが不倫しようがしまいが、たぶん、噂をしている奥様には、生活上、何の関係もないことですが、「その件について、私はこう思うのよね〜」と井戸端会議に花を咲かせるのは、それはそれでお楽しみや趣味の世界であり、ごく普通のことです。


しかし、同じ目的を持って集った同志が、その人のいないところで、無責任な批判をしているのでは、これは不誠実と見られても仕方がないことです。
そしてそういう人からは、まともな人は自然と離れていくものです。
なぜなら話を聞いた人は、
「ああこの人は、その場にいない人の悪口を言う人なのだな」と思うし、そうであれば自分がその場にいなければ、今度は自分が何を言われるかわからないと直感します。
いないところで揚げ足を取られて、何を言われるかわかったものではありません。
そんな人なら近づかないほうが良い。


それにしても昔の人は、こういう教育を年少の頃からしっかりと繰り返し受けて育ったわけです。
人間ができるわけです。

「小人閒居して不善をなす」
あらためて肝に命じたいものですね。