まだ書きたい事は沢山ありますが、今日のブログを最期に、また暫くは休止致します。
最後の疑問のある人は、八代将軍吉宗です。
周りに、不審な死に方した人が多すぎます。
兄二人の急死に始まり、尾張家の当主の急死など、まるで吉宗に将軍になるような出来事が続きました。
七代将軍が若くして死去しました。
跡目を定める事は出来ない状態でした。
吉宗は、幕閣だけでなく、大奥と水戸家を味方にしました。
水戸光圀と紀州光貞は、仲の良い従兄弟同士でしたから、往来は尾張家よりも頻繁でした。
当然だけど水戸綱条とは面識もあり、懇意にしていました。
五代将軍綱吉は、光圀がバックアップしたからなれた将軍です。
水戸家と近衛家は、光圀の正室を近衛家から迎えてから良好です。
水戸家が反対側に付けば、吉宗の将軍職は幻となります。
それを巧く説得して、八代将軍になりました。
吉宗は、家光からの血筋とは違い、織田信長の血は引いていない最初の将軍です。
吉宗は、経済力の安定に尽力しました。
米価の安定に努めたから、別名は米将軍とも言います。
町奉行には、有名な大岡忠相を登用して、江戸の治安の回復をさせました。
その一方では、尾張宗春や榊原政岑のように吉宗に楯突く者は、隠居謹慎を命じました。
尾張宗春の墓に、金網を巡らせました。
死んでも罪を赦さない吉宗の異常な一面も見せました。
御三家は、大大名として残し、格式もそのままだけど、優先権を御三卿、田安、清水、一橋の三家に与えました。
自分の血筋で、将軍職を続けたいと言う吉宗の願望が有りました。
病弱な九代将軍よりも、聡明な十代将軍に期待していたと言われています。
綱吉で喪われた、徳川幕府の力を回復させたのは、吉宗です。
大奥のリストラも、吉宗は断行しました。
美女をリストアップして、美女なら嫁ぎ先があるから去れ。
そう言った事は有名な台詞です。
質素倹約を率先して行い、豪華な事は止めて、厳かな儀式だけにしました。
徳川幕府400万石の財政を建て直しました。
吉宗は、確かに名君でしょう。
でも、人間的にはどうでしょうか?
徳川宗春にした行為は、常軌を逸してます。
兄二人の急死にも疑念は有りました。
死体を司法解剖したら、毒薬反応が出たかも知れないです。
光と影を持つ将軍。
それが徳川吉宗です。