「須磨寺」の拝観を終えて次に向かったお寺が、「兵庫大仏」で有名なお寺である「能福寺」です。
新西国三十三ヶ所観音霊場、第23番札所「宝積山(ほうしゃくざん) 能福寺」。創建は805年。開基は「伝教大師最澄」。宗派は「天台宗」。本尊は「薬師如来像。新西国観音霊場の本尊は十一面観世音菩薩像。」
詠歌 「ただ法(のり)の 宝を積みて はるばると 運ぶ歩みの 楽しかりけり」
「能福寺」は寺伝によると805年、還学生(げんがくしょう 短期海外留学生)の期間を終え、唐から帰朝した「伝教大師最澄」が兵庫区和田岬に上陸したことから始まります。
「伝教大師最澄」の上陸に大いに喜んだ庶民たちは、堂宇を建立して「伝教大師最澄」に教化を求めました。
「伝教大師最澄」は堂宇に自ら刻んだ「薬師如来像」を安置して、国家安泰と庶民の幸福を願い、「能福護国密寺」と名付けたと伝えられています。
このことで「能福寺」は、「伝教大師最澄」の日本最初の教化霊場とされています。
1180年、「平清盛」が福原遷都した際、平家一門の帰依により七堂伽藍が建立され、平家一門の祈願寺と定められて大いに栄えます。
源平合戦や1341年の南北朝の兵火によって焼失してしまいますが、1599年に「長盛法印(ちょうせいほういん)」によって再興されたと伝えられています。
1891年に兵庫の豪商「南条荘兵衛」の寄進により、青銅製「毘盧舎那大仏」が建立されて、奈良の「東大寺」、鎌倉の「高徳院」の大仏と共に日本三大仏とされています。
1945年、太平洋戦争における神戸大空襲で再び伽藍を焼失し、現在の「能福寺」の寺観は、それ以降に復興した規模の縮小されたものとなっています。
「能福寺」の交通アクセスは電車だと、JR神戸線兵庫駅から徒歩約10分ぐらいの場所にあります。
車だとお寺に駐車場がありませんので、周辺の有料パーキングを利用するしかありません。
「能福寺」には「山門」と言われる門はなく、「本堂」正面に門柱の入口がありますが、閉まっていて入ることは出来ないようです。
「本堂」正面の門から少し進むと、境内へ入る入口があります。
境内へ入ると真正面に「兵庫大仏」と言われる、青銅製「毘盧舎那大仏」が安置されています。
「毘盧舎那大仏」は1891年、兵庫の豪商「南条荘兵衛」の寄進により建立されましたが、1944年に太平洋戦争時の金属類回収令の供出のために解体され、現在のものは1991年に再建された新しい大仏です。
「毘盧舎那大仏」の下は「永代祠堂(えいたいしどう)」というお堂となっていて、ここに新西国観音霊場の本尊で重要文化財に指定されている、「十一面観世音菩薩像」が安置されているようです。
「兵庫大仏」から右手に行くと「本堂」があります。
「本堂」は1953年、京都東山の「月輪御陵(つきのわのみささぎ)」の拝殿「月輪影殿(つきのわえいでん)」を移築したものですが、1995年の阪神淡路大震災の被害で全壊し、1997年に以前の姿のまま再建されたものです。
「本堂」には本尊として秘仏の「薬師如来像」を祀り、お前立ちとして「阿弥陀三尊像(阿弥陀如来像、大勢至菩薩像、聖観世音菩薩像)が安置されているようです。
本堂正面。閉め切っていて全く内陣を見ることが出来ませんでした。
「兵庫大仏」の左前方に、「平清盛」の墓である「平相国廟(へいしょうこくびょう)」があります。
1168年、「能福寺」にて剃髪入道したと言われる「平清盛」は、1181年に京都で亡くなりますが、「能福寺」の初代住職で「平清盛」を剃髪出家させた「円実法眼(えんじつほうげん)」が、「平清盛」の遺言により遺骨を「能福寺」へ持ち帰り、寺領内にあった「八棟寺」に墓所を造立したと伝えられています。
平家滅亡後、「平清盛」の墓所は「能福寺」と共に無くなってしまいますが、1286年に平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ執権「北条貞時」が、一基の石塔を建立し「平清盛」の霊を弔ったと言われています。
現在の「平相国廟」は1980年、「平清盛」の800年忌を記念して建立されたものです。
「平相国廟」には中央に「平清盛」の「十三重石塔」、右側に「能福寺」の初代住職「円実法眼」の「宝篋印塔」、左側に「平清盛」の弟「平教盛」の子で、「円実法眼」の弟子である「忠快」の「九重石塔」があります。
「平相国廟」の左手には「滝善三郎正信碑」があり、右手には「當勝稲荷大明神」があります。
「滝善三郎正信碑」は「神戸事件」で亡くなった、「滝善三郎正信(たきぜんざぶろうまさのぶ)」の慰霊碑です。
「神戸事件」とは1868年1月11日、明治政府から兵庫県西宮市の警護の命を受けた備前藩が、西国街道を大砲を引いて移動中、三宮神社の前に差し掛かった時に、兵の列を横切ったフランス人水兵を負傷させたことをきっかけに、備前藩と外国兵との衝突が勃発し、外交悪化を恐れた明治政府は、備前藩の責任者として「滝善三郎正信」を、各外国の代表者立ち会いのもと「永福寺」で切腹させて、国際問題を解決させた事件です。
1人犠牲になった「滝善三郎正信」を市民が哀れに思い、切腹した「永福寺」に慰霊碑を建立しますが、太平洋戦争における神戸大空襲で「永福寺」は焼失し、残った慰霊碑を1969年に「能福寺」へ移したそうです。
「本堂」の右手には「本坊」があります。
「本坊」前には「ジョセフ・ヒコの英文碑」、「北風正造の碑」があります。
「ジョセフ・ヒコ」は兵庫県加古郡生まれの本名「浜田彦蔵」のことで、江戸幕末から明治にかけて通訳、貿易商で活躍した人物です。
13歳の時に江戸へ航海途中に難破してしまい、海を漂流中にアメリカ船に救出され、そのままアメリカに渡って語学を学んでキリスト教徒となり、クリスチャン・ネームを「ジョセフ・ヒコ」と名付けました。
「浜田彦蔵」は日本人で初めてアメリカに帰化してアメリカ人となった人物で、日本人で唯一、アメリカ初代大統領「リンカーン」と握手した人物と言われています。
「ジョセフ・ヒコの英文碑」は、神戸が開港されて多くの外国人が「兵庫大仏」を拝観するようになり、当時の住職が「ジョセフ・ヒコ」に依頼して、「能福寺」の縁起などを英文化してもらい石碑に英文を刻んだそうです。
ジョセフ・ヒコの英文碑。阪神淡路大震災の傷跡が痛々しいです。
「北風正造」は江戸幕末から明治にかけて活躍した兵庫の豪商で、神戸の発展に尽力した功労者だそうです。
江戸幕府軍と官軍との戦いで「姫路城」が無傷でいられたのは、「北風正造」が仲裁に入って、官軍に軍需金15万両を引き渡し紛争を解決させたそうです。
この石碑の文字は親交があった、「伊藤博文」の揮毫だそうです。
最後にその他の史跡なども簡単に紹介しておきます。
境内から出土した平家、源氏将兵戦没者供養塔。鎌倉時代のもの。
能福寺創建1200年記念、一葉舟中載大唐の石碑。禅林句集の中の言葉。



































































