今回、紹介する新西国三十三ヶ所観音霊場は、兵庫県加東市にある「光明寺」です。インドの天竺から紫雲に乗って渡来した伝説の人物「法道仙人」が開いたお寺と言われ、別名「播磨高野」とも呼ばれています。
新西国三十三ヶ所観音霊場、第28番札所「五峰山(ごぶさん) 光明寺」。創建は594年。開基は「法道仙人」。宗派は「高野山真言宗」。本尊は「十一面千手観世音菩薩像」。
詠歌 「あや雲の 空になびきて 光明寺 仰ぐ五つの 峰は晴れたり」
「光明寺」は寺伝によると「法道仙人」がこの地へ訪れた時に、1人の老人と出会ったことから始まります。
この老人は「法道仙人」に、この地は観音菩薩を祀るのにふさわしい場所であり、民衆を救済するための寺院を建立せよと告げて、「十一面千手観音菩薩像」を渡し、「法道仙人」が大衆信仰の霊場として開いたとされています。
平安時代初期の嘉祥年間(848~851年)に、第3代天台座主「慈覚大師円仁」が訪れて、「仁明天皇」の勅願により「慈覚大師円仁」が「常行堂」が建立し、「光明寺」は「仁明天皇」の勅願寺となりました。
南北朝時代の1351年、「足利尊氏」と弟「足利直義」の対立「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」で、「足利直義」軍の「石塔頼房(いしどうよりふさ)」が「光明寺」に本陣を置いて「足利尊氏」軍と合戦になるなど(光明寺合戦)、その後は栄枯盛衰を繰り返し、現在の寺観に至っているようです。
「光明寺」は5つの峰が連なる標高258mの五峰山の山頂にあり、「真言宗七十五名刹」の1つで、別名「播磨高野」とも呼ばれています。
「光明寺」の交通アクセスは、電車だとJR加古川線滝川駅から約2kmの距離を、徒歩もしくはタクシーなどで移動しなくてはいけません。
車だと県道145線から「光明寺」へ向かう道を曲がり、大きな駐車場がある参道前まで行くことが出来ます。
県道145線から光明寺へ向かう道に、寺名などを知らせる石碑がある。
駐車場から眺めた加古川方面。黄砂やらpm2.5やらですっきりしない。
「光明寺」の「本堂」は急勾配な参道の約700mの最終地点にあり、途中にある「仁王門」までの約500mの参道の両側に塔頭の「多聞院」、「遍照院」、「大慈院」、「花蔵院」などがあります。
参道の石柱を抜けると「漱水舎(手水舎)」、「地蔵堂」があります。
「漱水舎(手水舎)」の水は後で紹介しますが、「本堂」後方の下った場所にある「閼伽井の水」と同じものだと言われています。
急勾配な参道を登って行くと、まず左手に「多聞院」があります。
「多聞院」から少し進むと、右手に「遍照院」があります。
「遍照院」の本尊は「不動明王像」ですが、平安初期作で重要文化財に指定されている秘仏の「銅造如来坐像」も安置されており、毎年5月3日に行われる「花まつり」の際に開扉されるようです。
「遍照院」から少し進むと、左手に「大慈院」があります。
「大慈院」の後方の高台は「東光苑」という展望台となっていて、ここで「かわらけ投げ」の祈願成就が出来るようです。
「大慈院」から少し進むと、右手に「花蔵院」があります。
「花蔵院」のすぐ側に「仁王門」があります。
「仁王門」は山麗にあったものを、1693年に移転再建したものです。
1981年に解体修理が行われ、少し新しい印象があります。
「仁王門」には「仁王像」が安置されています。
「仁王門」を抜けると「本堂」までの参道の右手に「文殊堂」、「鎮守社」、「休堂」、「水子子育地蔵堂」、「常行堂」、「梵鐘堂」などがあります。
「文殊堂」は1682年に再建された建築物で、1982年に屋根葺き替え修理の際、正面に唐風向拝を新たに増築したそうです。
「文殊堂」は「光明寺」内で最古の建築物のようです。
「鎮守社」は「光明寺」の鎮守神である、「熊野権現」が祀られています。
「水子子育地蔵堂」は元々、1733年に再建された「納髪堂」だったそうで、1982年の大修理の際に改称したようです。
「常行堂」は「阿弥陀堂」とも呼ばれ、嘉祥年間(848~851年)に「仁明天皇」の勅願で、「慈覚大師円仁」によって創建されました。
現在のものは1701年頃に再建された建築物で、その後1779年に改築されて1982年には大修理が行われているようです。
本尊として「阿弥陀如来像」を祀り、脇侍に「観世音菩薩像」、「勢至菩薩像」を安置しています。
「梵鐘堂」は1742年に建立された建築物で、「梵鐘」は1958年に「東大寺」正面の「六角燈籠」の「妙音菩薩」を写して再鋳されたものです。
「本堂」は1859年に焼失した後、1925年に再建された建築物で登録有形文化財に指定されています。
「本堂」には本尊として、「法道仙人」が刻んだものと伝えられている「十一面千手観世音菩薩像」を祀り、脇侍に「不動明王像」、「毘沙門天像」を安置しています。
「本堂」周辺には「宝篋印塔」、「水かけ二尊像」、「閼伽井の水」などあります。
「閼伽井の水」は「法道仙人」が「光明寺」を開いた時に、諸仏に神聖な水を供するため、「法道仙人」自ら掘った井戸だと言われています。
最後に「本堂」裏手に、「光明寺合戦本陣跡」があります。
「光明寺合戦」で「足利直義」軍の「石塔頼房」は、「本堂」裏手に本陣を置いたとされています。
攻め方の「足利尊氏」と「高師直(こうのもろなお)」軍は、本陣を攻め落とせずに「光明寺合戦」に敗北し後退してしまいました。
光明寺合戦本陣跡。本陣を再現していたようですが荒廃しています。



























































