今回、紹介する西国三十三ヶ所観音霊場は、兵庫県姫路市にある「圓教寺(えんぎょうじ)」です。「西の比叡山」と呼ばれ、ハリウッド映画「ラストサムライ」のロケ地になったお寺です。
西国三十三ヶ所観音霊場、第27番札所「書寫山(しょしゃざん) 圓教寺」。創建は966年。開基は「性空上人(しょうくうしょうにん)」。宗派は「天台宗」。本尊は「如意輪観世音菩薩像」。
詠歌 「はるばると のぼれば書寫の 山おろし 松のひびきも 御法(みのり)なるらん」
「圓教寺」の創建年数の詳細ははっきり分かっていませんが、966年に「性空上人」によって創建されたと伝えられています。
九州で修行を積んだ「性空上人」は霊地を求めて旅をし、播磨の国へ訪れた時に、書寫山に紫雲がかかっているのを見て霊験を感じ、書寫山へ入山し草庵を結んだのが「圓教寺」の始まりとされています。
「性空上人」が入山する以前の書寫山は、「素盞嗚命(すさのお)」が山頂に降り立ち、一宿したという故事により「素盞ノ杣(すさのおやま)」と呼ばれていて、山中には小さな草庵があって、「性空上人」はこの草庵を「本堂」として改築したと伝えられています。
「素盞ノ杣」は「釈迦」が説法を行った「霊鷲山(りょうじゅせん)」の土で作られた山と伝えられていて、「性空上人」は「素盞ノ杣」が「霊鷲山」を書き写したように似ていること、「素盞(すさ)」と「書写(しょしゃ)」の発音が似ていることから、「素盞ノ杣」を「書寫山」と改称したと言われていて、創建当初の「圓教寺」は「書寫寺」と称していました。
970年、書寫山内にあった桜の霊木に毎日、天人が降り立ち礼讃する姿を見た「性空上人」は、弟子の「安鎮」に命じて生えたままの桜の霊木で「如意輪観世音菩薩像」を刻ませて、仏像を覆うように「如意輪堂(現在の摩尼殿)」を建立したと言われています。
「如意輪堂(摩尼殿)」が建立された後の986年、西国三十三ヶ所観音霊場の中興の祖で、「性空上人」の尊崇の念が強かった「花山法皇」が御幸し、「花山法皇」の勅願により「大講堂」が建立され、この時に「花山法皇」から「輪円具足を教える寺(円の形には徳に於いて欠けたところがなく、人間として最も成就した状態を象徴していることから自己完成の道を教える寺)」という意味がある、「圓教寺」の寺号を賜ったと言われています。
「圓教寺」は「後白河天皇」、「後醍醐天皇」の御幸を始め、多くの皇族や貴族、武将の崇敬を受け、多くの堂宇が建立され大伽藍を形成しました。
しかし、その後は天災などによる火災で焼失を繰り返し、「豊臣秀吉」による寺領の没収、明治時代の廃仏毀釈、太平洋戦争などの人災で荒廃し、規模は縮小しましたが、それでもなお西国三十三ヶ所観音霊場の中で最大規模のお寺となっています。
「圓教寺」は標高374mの書寫山の山頂にあり、書写山ロープウェイを使用して行くこととなりますが、書写山ロープウェイを使用せずに「東坂参道」という書寫山の山道を約45分かけて登って行くことも出来ます。
「圓教寺」の交通アクセスは電車だと、JR神戸線姫路駅からバスで書写山ロープウェイ前まで行き、書写山ロープウェイで山上駅まで行くこととなります。
車でも書写山ロープウェイを利用しなくてはいけません。書写山ロープウェイ前に大きな無料駐車場があります。
ロープウェイを使用する西国三十三ヶ所観音霊場は圓教寺のみです。
書写山山上駅から入山料を支払い、本堂の「摩尼殿」までは坂道の参道を徒歩で約20分ぐらい登って行かなくてはいけないですが、「摩尼殿」側まで行く有料のマイクロバスもあります。
徒歩で行く場合は「東坂」の参道を登って行き、「仁王門」を経由して「摩尼殿」へ行くことになります。
マイクロバスではバス参道を使用して「摩尼殿」へ向かうので、「仁王門」へは行かないので注意が必要です。
「仁王門」までの「東坂」の参道には、西国三十三ヶ所観音霊場の銅製の本尊が安置されていて、「西国巡礼の道」という名称が付いています。
「仁王門」は江戸時代初期に再建された建築物で、県指定文化財に指定されています。
「仁王門」には「仁王像」が安置されています。
「仁王門」から「摩尼殿」までの参道に塔頭の「壽量院(じゅりょういん)」、「十妙院(じゅうみょういん)」、「妙光院」、宿坊の「圓教寺会館」があり、「摩尼殿」とは反対方向に下って行く「西坂」の途中には「文殊堂」があります。
「摩尼殿」付近に近づくと下り坂となり、「湯屋橋」という橋を渡ると目の前の崖の上に「摩尼殿」が建っています。
「湯屋橋」手前の右手には「石造笠塔婆(せきぞうかさとうば)」、「護法石」があります。
「湯屋橋」は木製の橋でしたが、1620年に姫路城主「本多忠敬」により石製の橋へと修復されたようです。
「護法石」は書寫山の鎮守で「不動明王」の化身である「乙天」と、同じく鎮守で「毘沙門天」の化身である「若天」が、この石の上に降り立ったと伝わっています。
また、「護法石」は別名「弁慶のお手玉石」とも言われています。
「圓教寺」で修行したと伝えられている「武蔵坊弁慶」が、この2つの石をお手玉にしたと言われています。
「湯屋橋」を渡ると右手に「はづき茶屋」、「三十三所堂」、「放生池」、「本坊」、「地蔵菩薩像」などがあります。
「摩尼殿」は1933年に再建された建築物で、創建当初は「如意輪堂」と呼ばれていました。
本尊の「如意輪観世音菩薩像」は、崖の上にあった桜の霊木を生えたまま刻んだので、本尊を覆うように舞台造で崖の上に建立されました。
「摩尼殿」には本尊として「如意輪観世音菩薩像」が祀られ、脇侍として重要文化財に指定されている「四天王像」が安置されています。
創建当初の本尊は火災で焼失してしまい、現在の本尊は1933年に刻まれたものですが、「四天王像」と共に秘仏になっていて、毎年1月18日に開扉されるようです。
「摩尼殿」から「三之堂(みつのどう)」が建つ境内へは、「摩尼殿」の裏手から向かう平坦な参道と、「自然探勝路」という山道を登って行く2つのルートがあります。
ほとんどの人が利用する平坦な参道の途中には、塔頭の「瑞光院」、「大黒堂」、「杣(そま)観音堂」、「大仏」、「大杉」などがあり、「自然探勝路」の山道には「白山権現(十一面堂)」、塔頭の「仙岳院」、「愛宕社」などがあります。
「三之堂」と呼ばれる「大講堂」、「食堂」、「常行堂」はコの字に並んでいて、ハリウッド映画「ラストサムライ」で主にロケ地となった場所です。
「大講堂」は15世紀半ばに再建された建築物で、重要文化財に指定されています。「大講堂」も「圓教寺」の本堂とされているようです。
「大講堂」には本尊として「釈迦如来像」を祀り、脇侍として「文殊菩薩像」、「普賢菩薩像」が安置されています。「釈迦三尊像」も重要文化財に指定されています。
「食堂」も「大講堂」と共に落雷による火災で焼失し、15世紀半ばに再建が着手されましたが、未完成のまま放置されていて、1963年の解体修理の際に完成されたようです。
長さ約40mの2階建ての別名「長堂」と言われる建築物で、重要文化財に指定されています。
現在、1階が写経道場として利用され、2階は寺宝を展示する宝物館となっています。
「常行堂」も15世紀半ばの建築物で、重要文化財に指定されていて、常行三昧の修行を行う道場となっています。
本尊は重要文化財に指定されている丈六の「阿弥陀如来像」です。
「大講堂」に面して舞台が張り出していて、舞台の後方に本尊を祀るお堂が接続している形の珍しい建築物です。
「三之堂」の周辺には「本多家廟所」、「潅頂水」、「弁慶の鏡井戸」、「鐘楼」、「法華堂」、塔頭の「十地院」、「根本薬師堂」、「金剛堂」、「松平直基の墓所」、「榊原家墓所」などがあります。
「本多家廟所」は姫路城主「本多忠勝」、「忠政」、「政朝」、「政長」、「忠国」のお墓があります。
「弁慶の鏡井戸」は「圓教寺」で修行をしたと伝えられている「武蔵坊弁慶」が、この井戸を鏡代わりにして顔を覗き込んだと伝えられています。
「武蔵坊弁慶」は修行を終えて下山する前に、山の風が心地良くて昼寝をしているところ、「信濃坊戒円」が「武蔵坊弁慶」の顔に、墨で「足駄」といたずら書きをしたそうです。
昼寝から目覚めた「武蔵坊弁慶」は、皆が落書きされた自分の顔を見て笑うので、この井戸で顔を写して落書きに気付いたそうです。
腹を立てた「武蔵坊弁慶」は山中を暴れ歩き、堂宇を焼失させたと伝えられています。
「武蔵坊弁慶」は焼失させた堂宇の再建の資金を得るために、名刀を集めていたという説があるそうです。
999本目まで名刀を集め、1000本目を手に入れようとした相手が「牛若丸(源義経)」で、「武蔵坊弁慶」は見事に打ち負かされて、家来となるのは有名な話ですよね。
「鐘楼」は鎌倉時代後期の建築物で、重要文化財に指定されています。
十地院。ラストサムライの撮影時、トムクルーズの休憩所として使用された。
「根本薬師堂」は「性空上人」が書寫山へ入山し、荒廃していた小さな草庵を「本堂」として改築したのが「根本薬師堂」だそうです。現在の「根本薬師堂」は1333年に再建された建築物のようです。
「金剛堂」は塔頭の「普賢院」の「持仏堂」があった場所に、1544年に建立された建築物で重要文化財に指定されています。
「松平直基の墓所」の「松平直基」は、「徳川家康」の孫に当たる人物で、出羽国の「山形城」にいました。
1648年に姫路城主を命じられ「姫路城」へ向かう途中、江戸で病気にかかり病死してしまいます。
後に姫路城主になった「松平直基」の息子「松平直矩(なおのり)」が、1670年に「松平直基」の骨を分骨し「圓教寺」に墓所を作ったそうです。
「榊原家墓所」は江戸初期と中期に姫路城主になった、「榊原政房」と「榊原政祐」のお墓です。
「三之堂」から奥へ進んだ場所は「圓教寺」の「奥之院」となっていて、「不動堂」、「護法堂」、「護法堂拝殿」、「開山堂」があります。
「不動堂」は延宝年間(1673~1681年)に建立された建築物で、書寫山の守護神「乙天」の本地仏である「不動明王」を本尊として祀っています。
「奥之院」には「圓教寺」のもう1人の守護神「若天」の本地仏である、「毘沙門天」を祀るお堂がありません。
一説によると「若天」の姿があまりに怪異であって人々が怖れたので、「性空上人」が「若天」に暇を出したとも言われているそうです。
「護法堂」は1599年に建立された建築物で、重要文化財に指定されています。
全く同じ形の「乙天社」、「若天社」の2棟からなり、現在は修復作業中の為にシートで覆われていて見ることが出来ません。
「護法堂拝殿」は1589年の建築物で、「護法堂」とは離れて向かいあっている非常に珍しい拝殿だそうです。
「武蔵坊弁慶」が「圓教寺」で修行した際、ここで学問に励んだと言われていて、別名「弁慶の学問所」と呼ばれています。
「開山堂」は「圓教寺」を開いた「性空上人」を祀り、現在の「開山堂」は1671年に建立された建築物です。
「開山堂」の屋根の軒下の隅には、「左甚五郎」作と伝えられている3躰の力士の彫刻があります。
本来、4つの屋根の軒下の隅に4躰の力士の彫刻があったそうですが、その内の1躰が重さに耐えかねて逃げ出したために、3躰になったという伝説が残っているそうです。
「開山堂」の右手の斜面に、「和泉式部歌塚」があります。
「性空上人」に教えを請うために、「一条天皇」の皇后「中宮彰子」と共に「圓教寺」を訪れた「和泉式部」ですが、「性空上人」は女性に合うことは修行の妨げになると居留守を使って会ってくれず、
「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」
「性空上人」を月に例えて、煩悩の暗い闇に迷い込んでいる私たちを、月の明るい光が暗い道を照らすかのように、あなたの徳で私たちを救って欲しい。
と、「和泉式部」は一首の歌を託して「圓教寺」を立ち去りました。
この歌に感心した「性空上人」は、立ち去ろうとしている「和泉式部」たちを呼び止めて、
「日は入りて 月まだ出でぬ たそがれに かかげて照らす 法(のり)の灯(ともしび)」
仏道に入り私はまだ月の明るい光のような徳を得られていませんが、黄昏に向かい迷い込んでいるあなたたちの道を照らす灯となるなら、喜んで仏の教えを説きましょう。
と、「和泉式部」に歌を返し、「和泉式部」らに「法華経」の教えを説いたと伝えられています。
最後に書写山ロープウェイの無料駐車場がある場所に、書写山ロープウェイ山麗売店があります。お食事やお土産など買うことが出来ますよ。
再び書写だんごを食べました。2年前も味噌味を食べてたな・・・。






































































